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探偵に向いてない先生 第1話

探偵という仕事に憧れを抱いたのはいつからだろう?

奈良宏太ならこうたは、小さいときからアニメや漫画に登場する名探偵を見て、心がおどる感情を持ったことが幾度もあった。
でも奈良が、職業としての探偵を明確に意識したのは、高校のとき、当時片想いしていたクラスメイトから言われた言葉だ。

「探偵に向いてると思うんだよなぁ。奈良くんは」

この一言がなかったら、奈良は探偵という仕事にくことはなかっただろう。

ただ現実の探偵の仕事は、奈良が想像していたものとは、まったく違っていた。
飼っていた猫がいなくなった、なくし物をしたので探して欲しいなどはまだ良い方で、引っ越しの手伝いや、トイレがつまったなとどいった話まで舞い込んでくる。
それは専門の業者にお願いします、と丁寧にお断りをしていると、段々と仕事がなくなってきた。
一日中、事務所のソファに寝転がっていることも多くなり、このままのたれ死にしてしまうのでは、と不安がよぎった。
やっぱり探偵事務所ではなく便利屋に看板を変えようかと思い始めたとき、懐かしい顔が、突然奈良の目の前に現れた。

「高校卒業以来だから、10年ぶりくらいかな?」
立花楓たちばなかえでがそう言って微笑むと、小汚い事務所がオシャレなカフェに変わったように奈良には見えた。
奈良が一方的に片想いしていた楓は、高校のときから変わらない、透明感のある顔立ちで見つめてきた。ただ髪は高校のときより少し長めになっている。
「そ…そうだね。えーと…今は立花学園高等科の……理事長?」
交換した名刺を見ると、確かにそう書いてある。
理事長? この若さで?
「父親が二年前に亡くなってしまって、一人娘の私が引き継いだってわけ」
奈良は非礼を詫びながら、楓のためにコーヒーをいれ、近況を聞いた。
大学を卒業してから、自分の父親が理事長をやっている立花学園で教師として働いていたこと。
父親が亡くなったあとは、遺言に従い理事長の職に就き、最初は何も分からず右往左往していたが、最近ようやく慣れたこと。
そして、忙しいこともあって、結婚はまだしていないこと……。

「今日は奈良くんをスカウトしにきたの」
奈良が昔の思い出に浸りそうになったとき、楓は唐突にそう言った。
「スカウト?」
「そう。最近先生が一人…その、辞めちゃってね。非常勤でいいからうちの学校に来て欲しいんだ。奈良くん、大学は教育学部に入ったから、教員免許持ってるでしょ」
「へ? 先生? なんで僕が……、探偵の仕事で忙しくて、先生なんて……」
「ふーん……」
楓は部屋の中を何か言いたげに見廻す。
埃が積もっている机、ソファに放り出された雑誌。
ソファはいつも寝転んでるから、人が横になった跡がくっきりと刻まれてしまっている。
「あ…いや、今はあんまり依頼ないんだけど、忙しいときは忙しいって言うか……」
「あのさぁ」
楓は奈良のことをまっすぐに見据えてきた。
この射抜くような眼。この眼に何度心を奪われたことか。
そしてあの、とどめの一言を投げかけてきた。

「先生に向いてると思うんだよなぁ。奈良くんは」

頼りなさそうな感じだが、優しそう。
新しい先生に対するみんなの評価はそんな感じだろうか。
新学期が始まる朝礼のときに、辞職した清水しみず先生の代わりと、学年主任の先生から紹介された。
でも、私は知っている。
清水先生は辞めたんじゃなく、いなくなったんだってこと。

清水先生がいなくなった朝、私は朝早く学校に来ていた。
バスケットボール部の朝練があったからで、私は体育館に直接行こうとしていたが、思い出したことがあり、2年A組の教室に向かった。
教室に行き、中に入ると黒板に何か書かれていた。
清水先生のきれいな字だ。

なんだこれ?
私は、意味不明な文章を不審に思い、何となく嫌悪感を覚えた。
このメッセージは誰に何を伝えようとしているのだろうか?

教室を出る前に、私はスマホのカメラで黒板を撮った。
もう一度黒板のメッセージを確認し、そして体育館に向かった。

一時間目の授業の前、教室に戻ってくると、黒板からメッセージが消えていた。
私は近くにいたはやしくんに思わず声をかける。
「黒板に書いてあった…文字、誰か消した?」
林くんは突然話しかけれて、驚いたようだ。
「え……文字? 何も書いてなかったと思うけど……」
林くんはいつも学校に早く来ている。林くんが見ていないということは、それより早く来た誰かが消したのだろうか。
「林くんが来たとき、教室に誰かいた?」
山根やまね村上むらかみだけかな。いつも早く来るメンバーだから……」
山根まもると村上まいか。クラスで、いや学校の中でも一二を争う成績優秀者だ。
話しかけようかどうしよかと思案しているうちに、一時間目のチャイムが鳴ってしまった。

2年A組の一時間目は現代文。担任の清水先生の授業だ。
しかしやってきたのは、古文の深見ふかみ先生。
「先生間違えたの? 現代文の時間だよー」
クラス委員の斉田さいたリカの声が響く。
深見先生は少し微笑んだが、どこか固い表情をしている。
「清水先生は、ちょっと事情があって来れないんだ。急な話で代わりの先生もいないから、一時間目は古文の授業に変更するぞ」
事情ってなんですかー、いきなり古文かよー、みたいな声が上がる中、私は考え込んでいた。

黒板のメッセージを消したのは誰なんだろう。

「先生、回答にいたるプロセスを、もう少し論理的に教えてもらえないでしょうか?」
村上舞の少し高い声が、教室に響く。
現代文を教えているのに、論理的な話し方もできないのかよ、と言われているようで奈良は少し凹んだ。
「ごめん。もう一回説明するね」
舞の冷ややかな視線を受けながら、奈良は回答にいたるプロセスとやらを、できる限り丁寧に説明した。

立花学園の生徒は優秀だという話は聞いていたが、その中でも舞は、どちらが先生か分からない気持ちにさせられる。
「回答だけ分かれば、プロセスなんて自分で考えればいいだろ」
ぼそぼそとした声が聞こえる。山根守だ。
舞が今度は守に冷たい視線を送るが、知らん顔をしている。
自分で考えることで、さらに力をつけることができるということだろうか。それなら授業なんか聞かなくてもいいのではないかと思い、奈良はさらに凹んだ。

「あんまり気にしなくていいよー、奈良先生」
教室を出て職員室に向かっていると、クラス委員の斉田リカが後ろから話しかけてきた。
「別に気にしてない……いや、やっぱりちょっと気にしたかな…」
「あはは、正直だなぁ先生は」
リカは軽やかに笑う。
クラス委員という責任感からか、リカは奈良が赴任した直後からよく話しかけてきてくれた。
生徒に気を遣われる先生もどうかと思うが、リカのおかげで奈良は、この学校に少しずつ馴染めていった気がしていた。
「そういえば先生って、前はどこの学校にいたの?」
「学校っていうか、探……、いや、探究してた…大学とかで」
「探究? へぇ、研究とかしてたんだ。意外だなー」
探偵をしていたことは、楓から生徒に話さないようにときつく言われていた。危ないところだったと奈良は胸を撫で下ろした。
「斉田さん…ちょっと聞きたいことがあって…」
「なんですか?」
「僕の前任の…清水先生のことなんだけど」
リカが少し身構えるような感じになった。気のせいだろうか?
「…清水先生がどうしたの?」
「いや…どんな先生だったのかな、と思って」
リカはうつむき少し思案していたが、やがて顔を上げた。
「優しい先生だったよ。でも…私は大嫌いだけどね」
リカはそう言うと、きびすを返して教室に帰っていった。

「大嫌い…そう言ったんだ」
放課後、奈良は理事長室で楓と話していた。
「嫌いになるきっかけが何かあったのかな?」
奈良の言葉に、楓は眉を片方だけ上げた。
これは楓が怒っているときのサインだ。
「それを調べるのが、奈良くんの仕事なんだけどなぁ」
口調は穏やかだが、有無を言わさないような雰囲気だ。

表向きは先生だが、奈良には楓から託された仕事があった。
「学校で探偵をやれってこと?」
楓は奈良の仕事場に現れたあの日、先生になってあることを調査して欲しいと言ってきた。
調査内容は、清水という教師がなぜ学校に来なくなったかということ。
清水はある朝、学校に電話をかけてきて、しばらく行けないと伝えたそうだ。
理由も分からず、楓が自ら連絡をとろうとしたが、電話は解約されてつながらず、家はもぬけのからだった。
「突然いなくなって連絡とれないなんて、よっぽどのことだと思うんだよね」
「警察には届けたの? 家族は?」
「親がいるけど疎遠だったみたい。独身で兄弟もいなかったから、真剣に探そうという感じになっていないって聞いてる」
「それで、なんで楓…が探そうとしているの?」
奈良は久しぶりに楓のことを名前で呼んで、少し照れたが、楓は気づかなかったようだ。
「清水先生は、生徒たちにメッセージを残していたのよ」
「メッセージ?」
「そう。黒板に書かれていたみたいなんだけど……」
楓はそう言うと、自分のバッグから何かを取り出した。
黒板の写真だった。きれいな字で何やら文章が書かれている。
「清水先生がいなくなった数日後、この写真が理事長室の机の上に置かれていたの」
黒板の写真に書かれている字は小さかったが、楓はノートに書き写してくれていた。

誰がなんと言おうと、
あなたが、ずっと前から努力をしていたことを知ってる。
あともう少しだ。
いつものように振る舞えばいい。
何度も何度も挫折して、大粒の涙をこぼしたこともある。
意思の強さが君の力になっている。
さあパスをつなごう。
あきらめなければ、必ず、うまくいく。

「うーん。意味不明なメッセージだね」
「そうなの。誰に宛てたものかもわからないし」
奈良は写真を見ながら、
「これは清水先生の字なの? それからいつ書かれたものなんだろ」と聞いた。
「まぎれもなく清水先生の字よ。きれいで有名だったから。あと日付けは…ここ、黒板の右の方に書いてあって。清水先生がいなくなった日なの」
確かに右端に書いてある。日付は10月12日だ。
「日直の生徒が前日に書いて帰るから、11日の放課後以降か、12日の朝にメッセージは書かれたはず」
楓は、奈良がいれたコーヒーを一口飲んだ。
「でも、12日の朝に学校に行けないっていう電話をかけてきてるから……たぶん書いたのは11日じゃないかと思う」
「12日の朝、生徒が来たらこのメッセージが黒板に書かれていたってことか」
「違うの」
「え?」
「生徒が朝来たときには、何も書かれていなかったみたいなのよ」

「どういうこと? じゃあこの写真はいったい?」
「わからないの…写真が撮られたあと、誰かが消したとしか…」
「…生徒の誰かが消したってことかな?」
楓は首を横に振った。
「それを調べて欲しいの。生徒に確認するのがいいんだけど、私が聞き回るわけにもいかないし…」
真剣な顔で話をする楓を見ながら、奈良はさっきから疑問に思っていたことを口にした。
「なんで楓は、清水先生のことを調べようとしてるの? 確かに突然いなくなったのは謎だけど、何か人に言えない事情があったのなら、あえてそれを掘り返さなくても……」
それを聞いた楓は、呆れたように奈良を見つめ、こう言った。
「私は理事長だよ。先生が突然いなくなったら心配なのは当然でしょ」
奈良は高校時代の楓を思い出していた。クラス委員で責任感が強く、それは今も変わらないんだなと奈良は思った。
奈良は写真を改めて見る。
「この写真を楓のところに持ってきたのは、誰なのかな?」
楓はにっこりと笑った。
「その謎も探偵さんが解いてくれると信じてる」

「清水先生? なんでそんなこと聞くんですか?」
山根守は不機嫌そうな顔で奈良を見る。
奈良は昼休みの図書室で守を見かけ、話しかけていた。
「この間、村上さんがプロセスからちゃんと教えてくれって言ってたけど、清水先生は丁寧に説明する先生だったのか気になっててね」
「別に……教師なんて誰も変わらないですよ。清水先生は文豪の小説ばっかり読んでたし。こっちの方がよっぽどあてになります」
守は参考書を手にしながら、ぼそぼそと話す。
「はは…手厳しいね。……清水先生は辞める前に何か言ってなかった?」
「別に何も……、突然辞めちゃったって感じで…」
「そうか…。そう言えば山根くんは、いつも学校に早く来てるの?」
奈良はリカから、毎日守が早い時間に登校することを聞いていた。
「は?」
「いや…清水先生が辞めた日、何か書き残してなかったかなと思って。みんなへのメッセージとか……例えば黒板とかに」
「黒板? なかったと思いますけど…」
守が来たときにはもう消えていたということか。
「山根くんが学校に来たときは、誰か先にいた?」
守がいぶかしそうに奈良を見やる。さすがに質問しすぎたかと奈良は思ったが、守は違うことを考えていたようだ。
「村上がいたけど……でもその質問、前にも誰かに聞かれたような…」
奈良は驚いて守に聞く。
「前に聞かれた? 誰に?」
「誰だっけな…えーと、あ、確か林だ」

「先生って授業の準備しているんですか?」
村上舞は、また冷ややかな視線で奈良を見やる。
放課後、奈良が舞にちょっと話しがあるんだけどと、帰るところを引き止めると、迷惑そうにしながらも残ってくれていた。
「…一応、してるんだけどね」
「私は前日、すべての授業の予習をしてます。それぐらい真剣に臨んでいます」
「うん。先生もできる限りがんばるよ。……清水先生はちゃんと授業していたんだろうね」
舞は少し考えていたが、
「別に…清水先生もそんなちゃんとしてなかったけど……」と歯切れが悪そうに言った。
奈良は清水が辞めた日の朝のことを聞いてみた。
「私が教室に来たときは、誰もいなかったです。…黒板ですか? 何も書いてなかったですよ」
舞も守と同じように不審そうな顔つきをした。
「なんですかその質問。前にも誰かに聞かれたけど」
「うん。何かメッセージみたいなものを清水先生が書いてなかったかと思ってね。でも村上さんが一番最初に来たなら、そんなのなかったんだね」
舞は少し考える仕草をしたが、やがてこう言った。
「あっ、でもバスケ部のメンバーは早く来てたかも。朝練があったみたいだから。私が着いたときにはもう教室にいなかったけど」

バスケットボール部の練習が終わったようだ。
奈良は体育館の隅で、2年A組の生徒を探していた。
バスケットボール部に所属しているのは3人。
田原綾女たはらあやめ朝日香苗あさひかなえ、そして……。
「あれー、奈良先生どうしたの?」
リカの明るい声が体育館に響いた。
「ちょっと…バスケ部のみんなに聞きたいことがあって」
「聞きたいこと? どうせ清水先生のことでしょ?」
以前は清水という名前を聞いて、身構える感じがあったリカだが、今日は屈託なく話す。
「そうなんだ。清水先生が辞めた日、バスケ部の朝練があったって聞いて…」
「ふーん。まるで探偵みたいだねー、先生って」
「あ、いや…やっぱり前任の先生のこと知りたいっていうか…」
リカは奈良の言葉を最後まで聞かず、さっそく綾女と香苗を呼んでいる。

「黒板? うーん、気がつかなかったなぁ」
綾女は日焼けした顔で、首を傾げている。
「時間もなかったし、教室はとりあえず鞄だけ置こうと思って寄っただけだから…」
「そうだったんだ。……朝日さんは何か見なかったかな?」
香苗はバスケ部にしては小柄な身体を、さらに縮めるようにしていた。
「私も……見てません。黒板を特に気にしてたわけでもなかったので」
消え入りそうな声でいう香苗に被せるように、リカは、
「私は教室寄らなかったよ。朝練に遅刻しそうだっから」と言った。
「そうなんだ。教室に入ったのは田原さんと朝日さん、どっちが先だったのかな?」
綾女がその質問に答えた。
「たぶん私だと思う。体育館に来たのは私の方が早かったから」
「そうか。じゃあ体育館に来た順番は、田原さん、朝日さん、斉田さんだったってことかな」
三人とも無言で頷いた。奈良は、香苗が綾女の顔を見て、何か言いたそうな素振りをしていたのが気になっていた。

「まとめると、清水先生が辞めた日、2年A組の生徒が、学校に来た順番はこんな感じだね」
楓は、自分のノートに書き込んだものを奈良に見せながら話す。

田原綾女

朝日香苗

斉田リカ(教室には入らず)

村上舞(黒板には何も書かれていない)

山根守(黒板には何も書かれていない)

「これを見る限り、田原さんか朝日さんが黒板を消したってことかな」
楓がそう言ったが、奈良は首を振った。
「前日の放課後に、黒板を消したってこともあり得るんじゃないかな?」
「どういうこと?」
「つまり清水先生がメッセージを書いたあと、前日のうちに誰かが消したってこと」
「でもさぁ…この写真見てよ」
楓は例の黒板の写真を持ち出してきた。
「この明るさは夜ってことはないし…それにほら、黒板に少し影が写ってるでしょ」
確かに、薄く影のようなものが見える。
「これたぶん、教室のカーテンの影なんだよね。教室に太陽が差し込むのは、午前中だけ。だから、当日の朝だよ、絶対」
楓がきっぱりと言うのを聞き、どちらが探偵だか分からないな、と奈良は思った。
綾女か香苗が黒板を消したのだろうか。もしそうなら、なぜ黙っているのか。

「おはよう。探偵の先生」
登校する奈良の後ろから、リカが声をかけてきた。
「おはよう…探偵なんかしてないけど…」
奈良が苦笑いしながら答える。
「清水先生のことを聞き回ってるの、みんなの間で話題になってるよ」
生徒の間で噂が伝わるスピードは、相当なものだろう。ましてや新しい教師のことは、それなりに注目されている。奈良はそっとため息をついた。探偵であることは隠しておけといった楓にまた怒られる。
そんな奈良の気持ちを見透かしたように、リカが奈良の顔を覗き込んできた。
「…なに?」
「探偵の先生……私が助手になってあげるよ」

「…助手って?」
「生徒の話は、生徒が聞いた方が本音聞けるでしょ。奈良先生が聞いたって、みんな本当のことなんか話さないよ」
奈良は香苗の固い表情を思い出していた。確かにその通りかもしれない。
「私はバスケ部で、2年A組の生徒。助手にうってつけじゃないかな?」
言われてみたらそうだ。奈良はリカの話に頷くしかない。
よし決まり、とリカは言って、校舎に向かって駆けていった。
取り残された奈良は、なんでリカはこんなに協力してくれるのだろうか、と不思議に思っていた。

「なに鼻の下のばしてんのよ?」
後ろから突然声をかけられて、奈良は文字どおり飛び上がった。
「か…かえ…いや、理事長。驚かさないでください」
しどろもどろになる奈良に一瞥いちべつをくれると、楓は校舎の中に消えていくリカの姿を追いながら、
「あの子も調査対象だってこと忘れないでよね」と言った。
「調査対象? 斉田さんはあの日の朝、教室には入らなかったって……」
「額面どおり受け取っていいのかな、その話」
「どういうこと?」
「みんなが本当のこと話してるとは限らないってこと」
楓はさっきリカが話してたようなことを言う。
「まぁ生徒と仲良くなるのはいいけどね。ちゃんと一線は引いておいてください、奈良先生」
楓は、そう言い捨てるとさっさと校舎の方に歩いて行った。
あの二人似ているのかもしれない、奈良はそう思いながら、楓の後を追った。

「清水先生からの電話? なんでそんなこと聞くんだよ」
古文の教師である深見が大きな声を上げるのを、奈良は慌てて制した。
授業中の職員室は閑散としていたが、奈良や深見と同じく授業のない教師が何人か残っており、こちらに視線を送っている。
「深見先生、声抑えてください。……さっきも言ったとおり、清水先生のこと気にしている生徒がいて、事情を少し知っておきたいんですよ」
深見は記憶を呼び戻すように、視線を上に向けた。
「確か…最初は、今日は学校に行けないとかなんとか言い始めて…」
「学校に行けない? 辞めるって言ったわけじゃないんですね」
「辞めるとは言ってなかったな。…それで体調でも悪いのか? って聞いたら、この先しばらく行けない、理事長にそう伝えてくれって言って、一方的に電話を切ったんだ」
「そうなんですか…辞めるのではなく、しばらく行けないなんですね」
「あぁ、だから一時間目に俺が2年A組に行ったときも、清水先生は事情があって来れないって生徒に言ったんだ。……でもそのあとまったく連絡つかなくなったんで、生徒には退職として話そうって理事長が判断した」
確かに楓も、清水から学校に行けないという電話があったと話していた。しばらく行けないとはどういう意味だろうか、奈良には皆目見当がつかなかった。

「奈良先生」
授業が終わり職員室に引き上げようとして教室を出た奈良を、リカが引き止めた。
「どうしたの?」
奈良が聞くと、リカは奈良の耳元で、
「調査結果報告したいんだけど、夕方時間ある?」とささやいた。
「…うん」
「じゃあこのお店で。夕方の5時に来て」
リカは奈良に名刺のようなものを渡してきた。
手渡されたものを見ると、店のカードだった。
「ブルーフォレスト……ビアバー⁈」
奈良は驚いてリカを見ようとしたが、リカは手を振りながら教室の中に入っていくところだった。

◇第2話につづく◇

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