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東京にある「23の区役所」について調べてみた。

「建築」という趣味に「地方公務員」という仕事柄も相まって、都道府県庁や市役所をはじめとした公共建築に関心がある。実際に現地を訪ねて、鑑賞することもあるが、様々な資料を読み解き、建物の背景や文脈を辿ることで、違った見方ができることに、楽しさを感じている。

今回は、区役所で勤務するわたしにとって、もっとも身近な公共建築である「東京にある23の区役所」について、建築を軸に語ってみたい。ただし、23か所もあるため、いずれも簡易なものとなってしまう一方で、調べるなかで出会った興味深いエピソードは、事実関係を確認のうえ、可能な限り掲載することとした。したがって、区によって、分量に相当な差が生じていることはお許しいただきたい。 

なお、画像に引用元の記載がないものは、筆者自身が撮影したものである。また、それぞれに記載の最寄り駅は、もっとも「近い駅」ではなく、もっとも「利用されている駅」を記載している。大抵の場合、両者は一致するが、例えば荒川区の場合など、近いのは都電荒川線の荒川区役所前駅である一方、利用されているのは町屋駅など差異が生じている区もある。

根拠資料は、区史や区政概要などの自治体発行の冊子や公文書、建築系と都市系の文献や論文、新聞記事や区議会の議事録、その他ブログやSNSの発信も参照した。それでもわからない部分については、直接、区に問い合わせた。

容易に情報を得ることができる時代、23の区役所の基本となるデータベースは簡単に見つかると思いきや、作業は難航し、すべてが揃うまでには想像以上の労力を要した。まだ立ち往生したままで、調べきれていない部分もあるが、今回は一応の区切りとして書くこととしたい。

千代田区(2007年 九段下駅徒歩5分)

設計は清水建設、佐藤総合計画、鳳コンサルタント設計の合同によるもの。公共施設整備に民間資金を利用するPFI(Private Finance Initiative)方式により建設された九段第3合同庁舎(1階~10階)に「入居」している。

1999年のPFI法施行以降、公共建築の建設にあたっては、コストダウンが可能とされるPFI方式によるものが限定的にトレンドとなった。なお、この建物は国と地方公共団体共同で実施した初のPFIプロジェクトで、政府機関が集中する地域ならでは試みといえる。また、旧庁舎は千代田区単独の建物であった。

(清水建設HPより引用)

中央区(1969年 新富町駅徒歩1分)

設計は各地の公共建築で名を馳せた佐藤武夫(1899-1972)。「佐藤総合計画」は佐藤が主宰した建築事務所に由来する。佐藤のとりわけ後期の特徴のひとつが、外壁を覆う「有田焼タイル」である。これらは光があたると艶やかに輝くことで、一見して単調にみえる建物が多彩な表情をみせるようになる。翌年に完成の城南信用金庫本店(東京都品川区)も、同様に外壁は「有田焼タイル」に覆われている。

(中央区HPより引用)

すでに完成から半世紀以上が経ち、移転も含めた建替えについて検討するも「当面の間、現庁舎を使用する」と結論付けた(2022年9月)。なお、区は保有施設の耐用年数を「70年」と掲げていることから、最大で2039年頃までの使用が見込まれる。

(城南信用金庫本店 同社HPより引用)

<庁舎の移転にかかる議決について>
庁舎を建替える際に必要な予算は、議会の過半数により決せられる。つまり、ここでは「出席議員の半数以上の賛同」を得ればよい。しかし、これが「庁舎の移転」の場合、地方自治法の規定で「出席議員の2/3以上の賛同」を得る特別多数議決が必要となる。したがって、新庁舎の建設が移転を伴う場合は、より広範な合意形成が求められるのだ。(ここで苦戦しているのが、神奈川県鎌倉市である。市は深沢地区への市役所移転を計画するも、特別多数議決を得ることができなかった。現在、さらなる合意形成を図ったうえで、議会への再提案の時期を模索している。)

港区(1987年 御成門駅徒歩5分)

設計は日建設計。増上寺の正面に位置する「全国でもっとも裕福な自治体」の庁舎は、意外なまでに「無難」である。ただし、同区の出先機関の建物は、芝浦港南地区総合支所をはじめ、おもしろいものが多い。

(区HPより引用)

新宿区(1966年 新宿駅徒歩5分)

西新宿に位置する「東京都庁」があまりに巨大のためか、新宿区役所の存在感は実に小さい。しかし、この歌舞伎町の入口に位置する控え目な建物の誕生過程には興味深いものがある。

区は庁舎の設計にあたって、区内に立地する早稲田大学の教授であった明石信道(1901-1986)に相談したところ、明石は内藤多仲(1886-1970)を紹介した。内藤は東京タワーをはじめ、名古屋テレビ塔や通天閣(二代目)、博多ポートタワーなど、その数70もの鉄塔を手がけた、別名「塔博士」と呼ばれる人物である。しかしながら、内藤の専門は構造であることから、設計にあたっては構造部分を担い、意匠は明石に「逆依頼」することになったのである。

俳優の長谷川博己の父でもある建築評論家の長谷川堯(1937-2019)は、明石の建築を「ある地域にとってなくてはならない「地縁的な建築」」と評する。東京の中でも群を抜いて変化の激しい新宿の街で、端然と佇むこの建物は、意匠に地域的な要素がまったくないにもかかわらず、長い間、地域に「密着」し続けている事実のみを持って、確かにその存在が「地縁的」に見えるのである。

現在、区は移転を前提に、2035年頃までの新庁舎整備を目指している(2023年3月)。「地縁」という言葉が死語になりつつある時代において、新しい庁舎はどのような「縁」を生み出すのだろうか。

文京区(1994年 後楽園駅徒歩1分)

バブル期を象徴する公共建築のひとつ。庁舎単独として用いられている区役所としては、最大の高さ(地上28階建て、142m)を誇る。総工費は驚きの810億円(参考までに、近年の文京区の予算規模(一般会計)は約1100億円)。個人的にどうも好きになれない建物。どこか「冷たくて」、また意匠が「時代遅れ(=時代を超える普遍性を持ち合わせていない)」な感が否めないからだろうか。

(Wikipediaより引用)

台東区(1973年 上野駅徒歩8分)

庁舎の姿は上野駅に設置のペデストリアンデッキ(高架型の歩道)から、辛うじて眺めることができるが、近くには同程度の高さの建物が密集しているため、その全貌を把握するのは難しい。

しかしながら、完成当時の写真を見ると、まったく印象が異なる。密集地に登場した白亜の庁舎は、多くの人に強烈なインパクトを残したに違いない。設計は久米設計。なお、1986年に10階部分が増築されているが、完成当時から増築を前提に設計されていることが写真からわかる。

(落成当時の台東区役所 区HPより引用)

墨田区(1990年 浅草駅徒歩5分)

隅田川に架かる吾妻橋から眺めるスカイツリー、アサヒビール本社、そして、墨田区役所が立ち並ぶ風景は、いまや世界に誇る「東京」のひとつとなった。設計は久米設計。個人的にはとても好きなデザイン。なお、それまでは両国に第1庁舎(旧本所区役所)、向島に第2庁舎(旧向島区役所)を置く分庁体制であった。

(左から墨田区役所、スカイツリー、アサヒビール)

江東区(1973年 東陽町駅徒歩5分)

設計は建築モード研究所。大規模な組織系建築設計事務所ではないのにもかかわらず、一時期は「6区」もの区役所の設計した建築モード研究所の詳細は、別に取り上げたい。現在、区は「庁舎整備のあり方」が検討しており、2035年前後の新庁舎整備を目指して動き始めている。

(区HPより引用)

品川区(1968年 大井町駅徒歩5分)

設計は石本建築事務所。地形図を見ると、江戸時代に細川下屋敷を構成した台地の端に位置していることがわかる。この傾斜地かつ狭隘な敷地に建っている品川区役所は、完成当時から「狭い道幅、低いガード、バスも通えぬ新庁舎(昭和43年4月4日付朝日新聞)」と言われていた。あれから半世紀、いまでも状況は改善されず、駅から向かうまでの導線は、とりわけ狭い印象を受ける。

現在、区は隣接するJR社宅の跡地に新庁舎を建設予定(設計は日建設計)。2027年の完成を目指しているが、新庁舎の整備と併せて、大井町駅からのアプローチも整備されるため、長年の課題はついに解消する見込みだ。

目黒区(1966年 旧千代田生命本社ビル。区庁舎としての使用は2003年 中目黒駅徒歩5分)

千代田生命の経営破綻により解体の危機にあった村野藤吾(1891-1984)の名建築を取得し、庁舎として活用することを決断した区の姿勢は評価されて然るべきである。

しかしながら「英断」の代償は大きかった。この時期、区は新庁舎取得(約244億円)にくわえて、都立大の跡地開発(約203億円)に、碑文谷公園の拡張(約127億円)と大型事業を連発。そこに、リーマンショックに伴う約100億円の税収減が直撃したことで、「貯金」にあたる財政調整基金が枯渇寸前の財政危機に陥った区は、行政サービスの縮小や職員の人件費削減などの緊急財政対策を実施するに至った(現在は健全財政を維持している。)。

(旧目黒区役所)

なお、旧庁舎は建築モード研究所による設計。目黒で育ったわたしにとって、旧目黒区役所は「役所の原風景」を成す建物であった。

大田区(1992年 旧桃源社蒲田ビル。区庁舎として使用は1998年 蒲田駅徒歩1分)

国鉄清算事業団が保有する蒲田貨物ヤードの跡地の公売において、当時の公示価格の3.5倍の金額(657億円)で買い取ったのが、不動産会社の桃源社(破産済)。なお、公売の際、区も名乗りを挙げたが、金銭面で勝ることは、到底できなかった。

桃源社は同地に商業施設「桃源社蒲田ビル」建設するも、住専問題の余波を受けて、1992年に倒産。その後、1996年に区が建物を取得し、1998年より区役所としての利用を開始した。なお、桃源社はこのビルに総額で約900億円を費やした一方、区は167億円で取得した。結果として、当初の公売では木端微塵にやられた区は、安価でこの豪華な建物を手に入れたのである(ただし、当時はバブル崩壊後の不況下にあったこともあり、巨額の税金を投入することへの批判も強く、ビル取得のための予算はわずか2票の差で可決された。)。

現在、議場として使われている最上階は、もともと桃開閉式のプールが設置されていた。なお、設計は鹿島建設。

世田谷区(区民会館(1959年)、第1庁舎(1961年)、第2庁舎(1969年)、第3庁舎(1992年 松陰神社前駅徒歩5分)

区民会館(すでに一部解体済)、第1庁舎と第2庁舎は「日本におけるモダニズムの旗手」とも呼ばれる前川國男(1905-1986)が設計。設計者の選定にあたっては、コンペティション方式を採用したが、これは1950年代ではめずらしいものであった(新宿区役所の例を想起されたい)。なお、コンペには前川のほかに、日建設計、佐藤武夫、山下寿郎(1888-1984 自身の事務所は山下設計に繋がる)が参加した。

各庁舎の建築的価値は高く評価され、区役所の中では唯一、Docomomo(Documentation and Conservation of buildings, sites and neighborhoods of the Modern Movement=モダン・ムーブメントにかかわる建物と環境形成の記録調査および保存のための国際組織)に選定されている(区民会館、第1庁舎、第2庁舎)。多方面から保存の声がある中、区は建替えを決断した(区民会館のみ一部保存・改修される)。

(世田谷区役所第一庁舎)

新庁舎(設計は佐藤総合計画)は2027年10月に完成予定も、現在、工事施行者の大成建設から「2年の延伸」の申し入れを受けている。なお、第3庁舎の設計は区の営繕部門によるもので、自前の設計はめずらしい事例。

(世田谷区民会館)

渋谷区(2018年 渋谷駅徒歩11分)

設計は日本設計とホシノアーキテクツの合同による。庁舎の敷地の一部に定期借地権(70年)を設定し、その権利金(211億円)を建替え費用に充てたことで、区は実質負担なしで新庁舎を得ることができた。この方式は渋谷区モデルとして名を馳せたが、都市部、それも地価の高い地域でしか効果が期待できないこともあって、他地域での採用は聞いたことがない。

(日本設計HPより引用)

また、定期借地部分に建設されたタワーマンション(「パークコート渋谷 ザ タワー」)は、不動産価格が高騰する都内ではめずらしく、価格が下がっていると(ある不動産会社から)聞いたことがある。最近は通りを挟んだ先に、それ以上の高さのタワマンを建てる計画をめぐって、マンションの住民が反対運動を行っており、もっぱら「渋谷タワマン戦争」と呼ばれている。

(旧渋谷区役所)

なお、旧庁舎(1964年)は建築モード研究所の設計で、春日部市役所(1970年、まもなく解体)、志木市役所(1972年、解体済)と類似したデザインであったことから「三兄弟」と呼ばれていた。

(年明けに春日部市役所は解体工事に入る)

中野区(1968年 中野駅徒歩3分)

設計者である石井桂(1898-1983)の名前を知っている人は、ほとんどいないだろう。建築家であるとともに、政治家でもあった石井の代表作は「自民党本部(1966年)」。水平性を基調とした意匠は、どこか中野区役所と似ている。

もともと、この場所には国家地方警察東京都本部(占領期の一時的に存在した自治体警察の管轄外の地域を所管する警察組織。のちに警視庁と統合し、発展的に解消した。)の警察学校があった。この広大な敷地をめぐっては、60年代後半から始まる地域住民による土地開放運動を受けて、段階的に開放されていく。開放された土地では区役所のほか、中野サンプラザ(1973年)が建てられたとともに、「中野四季の都市(まち)」と呼ばれる再開発事業が、現在に至るまで続いている。なお、2012年に警察学校は府中に完全移転した。

(自民党本部)

石井は帝大卒業後、警視庁で建築課長を務めた後、東京都建築局長を経て、1953年、参議院選に出馬する。その後、参議院議員を計2期、衆議院1期務めた。なぜ石井が中野区役所の設計を担うことになったのか、その確固たる知見を得ることはできなかったが、中野区と警察の浅からぬ縁が影響を与えたと考えるが自然であろう。

現在、隣接地に新庁舎(設計は日本設計)を建設中で、完成は2024年春を見込んでいる。

杉並区(1992年 阿佐ヶ谷駅徒歩7分)

設計は石本建築事務所。同程度の高さの建物を囲まれているせいか、この建物の全貌を把握することは難しい。また、不整形地に位置しているため、どのような経緯でこの場所が選定されたのか、今後の課題としたい。

(白石建設HPより引用)

豊島区(2015年 東池袋駅徒歩3分)

庁舎と共同住宅を一体的に開発した「としまエコミュータウン」の一部に入居している。設計は日本設計と隈研吾(1954-)。従前資産との権利交換及び旧区役所跡地の定期借地により、新庁舎の購入費(約136億円)を賄ったため、区の実質負担は生じなかった。渋谷区同様、一時期は日本の公共建築のモデルとなったが、追随した事例は聞いたことがない。

(隈研吾HPより引用)

北区(中央棟(1960年)、1962年(西棟)、1967年(東棟) 王子駅徒歩5分)

建物の設計者について調べるも、資料等は見つからず、区の総務課に問い合わせたところ、回答は「記録が残っていない」ということだった。そのうえで、あくまで「噂」として「都の退職者が設計した」とお話してくれた。「まちの顔」でもある庁舎の設計者がわからないということがあるのかと驚いたが、増築を重ねた姿を見ていると「しょうがないのかな」と思ったりもする。

現在、区は同じ王子にある国立印刷局王子工場の一部敷地を取得し、2033年までの移転を目指している(2023年3月)。新庁舎の完成時、一番古い建物は築80年を超えることになる。

荒川区(1968年 町屋駅徒歩12分)

設計は建築モード研究所と知ったときに、旧渋谷区役所との類似性に気がついた。「三兄弟」は前面をガラス張りとする一方、ここはコンクリートの梁を押し出す意匠、 これが建物の湾曲さをいっそう引き出している。現在、隣接の荒川公園への移転のうえ、2034年の新庁舎完成を目指している。

板橋区(北館(1987年)、南館(2015年) 板橋区役所駅徒歩1分)

設計は北館が安井建築事務所、南館が山下設計による。なお、数多くの医療機関を設計したことで著名な伊藤喜三郎(1914-1996)が出かけた旧庁舎(1963年)は、とてもかっこいい。

(南館)
(旧板橋区役所 伊藤喜三郎建築研究所HPより引用)

練馬区(東庁舎(1980年)、西庁舎(1984年)、本庁舎(1996年) 練馬駅徒歩5分)

東庁舎は石本建築事務所、西庁舎は建築モード研究所、本庁舎は山下設計によるもの。本庁舎の高さ93.82m、文京区役所に次ぐ高さを誇る。

(本庁舎)

足立区(1996年 梅島駅徒歩12分)

設計は松田平田設計。前述の練馬区役所(本庁舎)とともに、バブル期の勢いを僅かながらに感じさせる建物である。なお、旧区役所は千住に位置していた。現在、そこには東京芸術センターが建っている。

葛飾区(1962年 京成立石駅徒歩7分)

設計は佐藤武夫。正面に議会棟、その先に本館が配置され、その中庭部分に新館がある。なお、1階部分はほぼすべてピロティとなっており、通り抜け可能。どこか大学のキャンパスを感じさせる余裕のある空間、極めて贅沢ではないだろうか。

(議会棟)

現在、区は京成立石駅北口地区の再開発事業と併せて、2028年の新庁舎完成を目指している。「せんベロの聖地」に、真新しい区役所が建つこととなる。

江戸川区(1962年(南棟)、1970年(東棟)、1984年(西棟) 近隣の駅からバス)

「ここにどうして役所ができたのだろう」と疑問を抱かせるほど、不便な場所にある。新小岩駅または船堀駅から徒歩で行ったときは20分以上の時間を要す。なお、設計は建築モード研究所。現在、区は船堀駅の再開発事業と併せて、2028年の新庁舎完成を目指している。

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