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「不毛の地」に佇む風車の過去と未来と現在地ー波崎ウィンドファーム(茨城県神栖市)

「あの景色を見ることができる」、そんな気持ちに心踊りながら歩いている。

かき分けるように防風林を抜けると、小さな砂丘が見える。真上からは照りつける太陽にさらされ、足元からはその光を照り返す砂に囲まれる世界。汗が滴り落ちるなか、10分ほど歩くと目的の場所となる。

延々と続く砂山にほんの少し生える雑草は、この地が不毛の地と呼ばれる「砂漠」ではなく「砂丘」であることを教えてくれる。
砂丘を超えた先にある砂浜に向かって、波が打ちつける海まで歩く。後ろを振り向けば、そこには12基の風車が佇んでいる。
いつかは目にしたいと思っていた景色に、ようやく出逢うことができた。

足元に視線を落とせば、無数のハマグリの貝殻が目に入る。それもずいぶんと大きい。きっとこれらは、外海の激しい波のなかで、たくましく育ったハマグリたちなのだろう。近頃、目にした海はどれも内海だったが、ここは外海だ。目の前の水平線の先に、陸地はけっして見えない。この先の次なる陸地は、ハワイだろうか、いや、アメリカ大陸だろうか。

こんな広大な海を前にしても、私の視線は、その反対側にある風車に向く。生まれて初めてみた巨大な風車の群れに、立ちすくむ思いを抱いた。
真夏の砂丘は、砂の照り返しが強いことから、体感気温は50度近くにも及ぶという。くわえて、深い砂に足を取られて、実に歩きにくい。とはいえ、厳然と佇み、緩やかに回転する風車が、この地に風が吹いていることを知らせてくれる。

思えば、訪ねた日はタイミング悪く、下ろし立てのスニーカーを履いていた。「ダサかっこいい」とよくわからない言葉が似合うニューバランスのCM1700だ。一瞬、砂が入り込み、汚れることを気にしたが、憧れの景色を目にすることができると思えば、それも苦にはならなかった。 

さて、今回はわたしを夢中にさせたこの「風車」を切り口に、この地の歴史について書いてみようと思う。

茨城県の最東南端に位置する神栖市(かみすし)は、95,000人ほどの人口を抱える街。市の南側には利根川が流れており、そこを渡ると千葉県銚子市になる「県境の街」でもある。また、神栖市は隣接する鹿嶋市(両市合わせて鹿行地域と呼ばれる)とともに、鹿島臨海工業地帯を形成する県内最大の工業都市として知られる。
この工業地帯の特徴は、始まりが自然発生的に企業が集積したことによるものではなく、国策として人工的かつ計画的に開発されたことである。ひとつの工業地帯をゼロから作り出す巨大開発は、いわゆる「鹿島開発」と呼ばれ、高度経済成長期の日本を象徴する一大事業となった。

「鹿島開発」の前、自らを「後進県」と自虐する茨城県は農業と漁業を中心とする産業構造であったが、それはこの鹿行地域も同じであった。さらに、交通網がまったくといっていいほど発達しておらず、巨大な「陸の孤島」と揶揄される有様だったのである。また、鹿行地域は太平洋と霞ヶ浦に挟まれているが、太平洋沿いにある長い砂丘は、「不毛の地」の象徴として語られることもしばしばあったようだ。
ところが、高度経済成長期の1960年、県はこの地域の近代化を試みる。それは「貧困からの解放」を謳った大規模拠点開発で、工場の誘致を中心に進められた。この「鹿島開発」と呼ばれた一連の開発は、当初は県単独の事業であったが、しばらくすると国の全国総合開発計画、いわゆる「全総」に位置づけられ、以後、国策として進められることになる。
開発の目玉は、「不毛の地」に過ぎなかった長大な砂丘が連なる鹿島灘の沿岸に、大型タンカーの入港が可能な港湾施設を建設するとともに、鉄鋼・石油化学コンビナートを中心とした工業地帯を形成することであった。

「鹿島開発」は用地買収で困難を抱えたものの、総じて順調に進み、1968年には国鉄(当時)鹿島線が開業、翌1969年には鹿島港が開港、さらに1970年になると鹿島臨海鉄道が営業開始となり、陸と海のアクセスを確保する交通インフラが整備される。
また産業集積については、鹿嶋市域を中心に製鉄所が建設される一方、神栖市域には石油化学コンビナートが形成され、ここに鹿島臨海工業地帯は誕生した。
1984年まで続いた「鹿島開発」の結果、いまでは約160の企業、2万2000人の従業員を擁する太平洋ベルトの一角を担う工業地帯まで発展を遂げたのである。

ところで、「鹿島開発」は国内のみならず、海外においても注目を集めていた。そのきっかけとなったのが、2人のフランス人が作成したドキュメンタリー映画「鹿島パラダイス(1970年)」である。
この映画では「鹿島開発」を、当時並行して行われていた成田空港建設に伴う三里塚闘争と重ね、経済開発の名の下、農民が土地を奪われ、誕生した工業地帯を「資本主義の象徴」のように画いている。
しかしながら、「鹿島開発」では計画素案の段階から計画完了まで一貫して「農工両全」を謳われていたことからも、経済的合理性を理由に農業や漁業を一方的に犠牲にした開発ではなく、それらにおいても生産性の向上を、少なくとも計画の主体である国や県は目指したものであったことは、留意する必要があるだろう。ちなみに、神栖市では日本一の生産量を誇るピーマンをはじめ、いまでも農業が活発に行われている。 

巨大開発から半世紀以上が経過した現在、茨城県の製造品出荷額は、京葉工業地域を抱える千葉県を上回る全国7位に位置している。そして、その7割を  重化学工業が占めていることからも、鹿島臨海工業地帯の存在は大きいといえる。市町村別では、長年、神栖市は県内1位の出荷額を記録し、他方、鹿嶋市も県内4位と上位に位置し、ともに茨城県の製造業を支えている。ちなみに、茨城県内は鹿行地域以外に、県北には日立市、県西には古河市といった名だたる工業都市がある(数字はすべて2018年の工業統計調査による)。

ところで、わたしたちの営みが重なり合う産業社会は、緩急はあるとはいえ、常に構造転換の圧力にさらされている。とりわけ近年は、1990年代に始まったとされるグローバリゼーションにより、その勢いは急速かつ強力になっている。
なかでも世界共通の関心事でもある環境問題は、産業構造の変革を強く促す。そこでは温室効果ガスの削減と、その代替としてクリーンエネルギーの導入が謳われることが一般的である。
このクリーンエネルギーを象徴する風力発電は、19世紀後半、イギリスに実用化されたことに始まるが、日本においては今なお十分に普及しているとは言いがたい。
しばしばその要因として、歴代の政府が太陽光発電を重視してきたといった政治的問題や、風力発電の立地に適している平地が少ないなどいった物理的な問題が挙げられる。とりわけ関東地方は風力発電の割合が低く、その数は東京や神奈川では極めて少なく、埼玉にいたってはまったく導入されていない(2018年3月末現在)。
そのような関東地方において、最大の風力発電拠点となっているのが、茨城県、なかでもこの鹿島灘沿岸である。

冒頭で紹介した景色は「波崎ウィンドファーム」と呼ばれる風力発電所のことである。ここは全長20kmにも及び「日本一の長さ」を誇るとされる波崎砂丘に位置する。
そもそも、砂丘とは風によって運ばれた砂が堆積して形成される丘状の地形ことをいう。植物も生えれば、降雨もある。他方、しばしば混同される砂漠は、植物がほとんど生えることなく、降雨量は極端に少ない。くわえて、砂が堆積するのではなく、岩盤がむき出しとなった地形である。
したがって、砂丘形成の必要条件のひとつが砂の堆積をもたらす風であるが、海流や潮流が速く、風浪が激しい海域を意味する「灘」の名称を有する鹿島灘に面するこの地は、文字どおり風が強い。

2000年以降、高まる環境問題への関心や電力自由化の流れを受け、風力発電に適する風況を持つ、鹿島灘沿岸には、相次いで風力発電所(ウィンドファーム)が建設されるようになった。いまでは、風車は神栖市内に限っても、45基(2019年6月現在)を数えるまで増えた。そのなかで最大の12基を有するのが、この「波崎ウィンドファーム」である(地図は神栖市HPより引用)。

2004年の設置された波崎ウィンドファームでは、ドイツのDeWind社製の12基の風車が、一般家庭1万世帯分にあたる、年間3500万kWhの電力を生み出す。
風車は、軸(ハブ)を収める箱型の部分(ナセル)までの高さが64.5m、そこに20mの長さの羽(ブレード)が加わることで、回転時は最長80m以上の高さにもなる。

25階建てビルの高さに相当する12基の風車が立ち並ぶ光景は、圧倒的で、立ちすくむばかりだ。

この場所を離れる前に、鹿嶋市のほうに目を向ける。目の前にある波崎ウィンドファームの1基の先には、いくつかの風車が見える。そのうちのひとつは国内最大級の大きさを誇る鹿島港深芝風力発電所である。さらに現在、鹿島灘の洋上に19基の風車を設置する「鹿島港洋上風力発電所」の建設計画が進んでいる。2024年に予定している完成後は、ここに中型の原子力発電所1基分の発電量に相当する風力発電所が誕生する。

「不毛の地」とされた砂丘を生き抜く雑草のように厳然と佇み、草がなびくように優しく回転する風車は、少しずつではあるものの確実に進む「第2の鹿島開発」の紛れもない主役である。

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