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映画「人魚の眠る家」を観て、人の死を考える。

東野圭吾原作のベストセラーを映画化。東野圭吾さん自身もこれを自分が書いていいのかと執筆しながらも悩んだという問題作。

プールで溺れてしまい脳死状態になってしまった娘を 医療の限りを尽くして生かしているが、だんだんとエスカレートしていくその行為に どこまでが生きていてどこからが死んでいるのか、誰もがわからなくなる。

愛する家族の死は、どんな人だって悲しいし、受け入れられないし、たとえ、話せなくても動けなくても、目を覚まさなかったとしても生きていてほしいと願ってしまう気持ちはすごくわかる。

ただ、本人の意識がない中での過度な医療行為は、残された家族にとって本当に必要なことなのか、その問題は、誰も答えが出せないんじゃないかと思う。

昔だったら、多分、医療技術がなくて、生かし続けることなんてできなかった。

それが今は、お金を掛ければ、色々な方法を選択することができてしまうのだ。その選択を家族が選べと言われても、してあげられなかった後悔を考えると、できる限りのことはしてあげたいと思ってしまう。生きている家族に重くのしかかってくる問題だと思う。

これから先は、再生医療もどんどん進んでいき、もっともっと死ねなくなっていくのかなあ。

これって人間が、踏み入れちゃいけないところまで踏み込んじゃっているってことなんだろうか?

この映画では、自分の子供っていうストーリーだから、ある家族の話として客観的に見れるところはあるけど、脳死とか、そこまでの段階までいかなかったとしても脳梗塞だったり、ガンだったり認知症だったり、自分の親がそういう状況に直面することは、これからの私にも確実に起きていくことなんだなあと思う。

私の中でひとつだけ言えることは、自分の家族には長く生きていて欲しいけど、本人にとって生きている事が苦しくなるぐらいの医療行為は選びたくないと思う。

私自身が、ガンになったせいもあるけど、今の医療は、医者が全てを決めてくれるわけじゃない。まるで、料理のメニューを決めるように、これもあるし、あれもあるし、あっオプションでこれも出来ますけど?みたいな事を言われるのだ。

人間はずいぶん傲慢になっちゃったかもしれない。人の命もお金次第で変わってしまうんだから。

だからこそ、「死ぬ」っていうことをどうやって受け入れていくかを考えていかなきゃいけないのかもしれない。家族がこの世からいなくなるっていうこと。自分もいつか死ぬっていうこと。

そう思うと、今、生きてるこの時間を愛おしいと思えるようになるのかもしれない。




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