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世にも美しい語り部 ジョン・クロウリー『エンジン・サマー』

『エンジン・サマー』は1979年に書かれ、日本初版は1990年が初出。福武書店から発行された近未来を描いた幻想文学であります。

 手元にあるのはむかぁし入手した中古の単行本だが、のちに文庫版が出て平積みされていたには「おお!」と思った。表紙画に初版の単行本と同じ絵がつかわれていたからだ。こうでなくっちゃ。

――あなたの物語をきかせて。はじまりからはじめて、終わりまで話し続けるの。

物語は、<しゃべる灯心草ラッシュ>という名の少年が、天使とよぶ少女に問われるまま、語りだすところからはじまる。

 なんの予備知識もなく読み始めたら、それがどこかはわからないはず。今、ここではない神話の世界のようにも思える人や世界が描かれているから。でも少しずつ見えてくる。この世界が、未来の、文明が滅びたのちの世界の話だと。

というわけで、簡単にあらすじを。

文明社会がほろびたあとのアメリカ(らしい)。少年灯心草ラッシュは、聖人の伝説をかかえ、幼なじみの少女一日一度ワンス・ア・デイのあとを追い旅に出る。旅先で出会うのは、天空の天使たちに置き去りにされた町や不思議な道具だった・・。

 あらすじを書いても読んでも、未来ぽくないが、実はけっこうなSF的設定なのでありますよ。

 崩れかけたハイウェイ。
 湿度によって動く魔法のような道具。
 少年は人を殺すための「車」というものがあったことを昔話として聞く。
「おかね」というものが、他人を従わせていたことも聞く。
 星に向かったという機械の残骸。
 天空の地ラピュタへいった天使たち。

 かつて使われていた言葉の意味さえ、失われている。
 だから、
 季節の変わり目のひとときの夏は、意味もわからず機械の夏エンジン・サマーと呼ばれている。
 インディアン・サマーではなく。

 

 原作が1970年代なので、まだ携帯も家庭用パソコンも想定されていないのか、時代の終わりのお告げは、町中に鳴り響く電話だった、なんてところもいとおしいぞ。

 さて、なによりこの物語が秀逸なのは、あくまでも少年の目線で語られている点だ。
 それは、幼い子どもが、はじめて目にするものについて、懸命に誰かに語るのに、とてもよく似ている。
 少年が何のことをいっているのか、今を生きる者なら、「む。あれのことか」と思い当たる。でも、物語の時代には、この少年に過去の事実を教えられる人はほとんどいない。少年が見聞きしたままのことしか、わからない。
 たまに<天使>がさらりと説明するけれど、少年は「ふぅん」と思うだけ。
 そこがいい。

 何もかも失われた世界で成長した少年が語る言葉は、素直で詩的で、この物語の最大の魅力なのだ。

 すこし長いけれど、『エンジン・サマー』(福武書店 訳・大森望)より引用させていただこう。

 時間というものは、うしろ向きになにかから歩き去っていくようなものだと思う。たとえば、キスから。まず最初に、キスがある。そこから一歩下がると、視界にふたつの瞳が映り、もっと下がると、その瞳を囲む顔が見えてくる。顔はやがて体の一部におさまり、体はそれを囲む戸口におさまり、戸口はそのわきの木立のあいだにおさまる。戸口へとつづく径が長くなり、戸口は小さくなり、やがて木々が視界いっぱいに広がって、もう戸口は見えなくなり、それから径は森の中に消え、そして森は山々の中に消える。それでも中央あたりのどこかに、まだキスはある。時間というのはそんなものだ。

 うはぁ・・。
 最初からぐっと引き込まれる。
 そして言葉を重ねるたびに、映像が次々とめくられて広がっていくようではないか。
 そしてその奥に、少年が焦がれ続けた少女が遠のいていく姿が見えてくるような。


 この物語は、最後の最後でおおっと思うことが起こるのだが、我にはどうも仕掛けがくっきりとは見えない。たぶんこうらしい・・と思うだけ。難解な言葉など、ひとつも使われていないのに。
 でも、だから何度も読んでしまう。
 ハロウ。灯心草ラッシュ ←こんな名前もいちいちいいよねー!

 そして実際、少年はものがたりのなかで、くりかえしくりかえし語り続けることになるのだ。

 単行本の解説は小川隆氏。
 さらに本著の訳者である大森望氏が付記を残している。
 大森氏いわく、この本は「初恋の人」であった。と。そして翻訳の苦労話も書かれている。リアルに、緻密に描かれた未来の言葉の変容ぶりを日本語に直すのはさぞ大変だったろう。

 おかげで、いまここに。
 古書店でグラシン紙に包まれ、誰かの手元からめぐってきた本書がある。
 くりかえし読みたい一冊だ。
     


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