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生きているのがつまらなく感じたとき

こんにちは、ぱんだごろごろです。
私は、楽観的な人間です。
他人さまからは、いつもニコニコしていて、とにかく明るいですね、と言われます。

能天気なのはその通りですが、
年齢が前期高齢者に近付くにつれ、
なんだか生きていてもつまらないなあ、とふっと思うようになりました。

自分が生きているということについて、絶対的な肯定感しか持っていなかった私にとって、これは珍しい現象です。

私にとって、生きているということは、誰かから、一時的に、「ぱんだごろごろ」という人間をお預かりして、育てているということ。

どうして、この世に、「私」がいるのか、ということについては、『なぜ私は、自分のことを「自分」であると認識しているのか』という疑問と同じく、考えてもきりがないので、最近は考えないようになりましたが、子ども時代は、そのことをいっしんに考えていました。

なぜ、他の人間ではなく、この(ぱんだごろごろという)人間が私に任されているのか。
もし私に与えられたのが、私ではなく、他の人間(例えば、もっと小柄で、運動神経もいい、胃腸の強い人間)だったら、私の人生も、私の生き方も、変わっていたのではないか。

そんなことを考えていたのですね。

でも、ご存知の通り、それについて、いくら考えても答えは出ません。

私に任されたのが私だったから、今の私が存在しているのですものね。

取り敢えず、誰かから、「私」として生きることを仰せつかったからには、任務を遂行しましょう、という心持ちでした。

先ほど、「自分が生きているということについて、絶対的な肯定感しか持っていなかった」と書いたのは、そういう意味です。

自分の意思として生まれてきたのではない以上、私が生きているのは、誰かの意思によるものです。

よって、その誰かの意思を、私がかってに中断したり覆したりすることは許されない、という意識が常にあったのです。

とにかく生き延びること。
何事にも、出来る限りの努力をすること。
私の存在は、この世界を構成する要素の一つである。

とまあ、そんな風に考えて、この年齢になるまで生き続けて参りました。

ところがねぇ、最近ふっと、つまらないなあと感じるのですよ。

65歳になるまで働いたら、あとは読書三昧で生きよう、
大沢在昌みたいに、午前中だけ書くという作業(アウトプット)をして、午後は散歩をしたり本を読んだり、好きに過ごせたら、どれほど幸せだろう、と思っていたのですが。

その考えが、ふっと色褪せて見える瞬間があるのです。
ひとりよがりな、誰のためにもならない生き方なのではないかって。

自分ひとりの幸せだけを追求した、そんな生き方が、果たして許されるのだろうかって。

そんなことで、ずっとモヤモヤしていたのですが、
朝の通勤途中、跨線橋を歩いているときに、思い付きました。

私が楽しそうに生きていることが、この世界に対する、最大の社会貢献なのではないだろうか、と。

読書三昧で老後を過ごす、というのは、確かに独りよがりな生き方で、それだけでいいの、と訊かれたら、もっと社会のためになるようなことをした方が良いに決まっているでしょう。

けれど、私が、自分のしたいことをして、満足して楽しそうにしていたら、それはそれで、良いことなのではないだろうか。

以前、聞いた話に、こんなものがありました。
ある宗教に帰依したひとが、その教えを広めるために、何をすれば良いのか、と尋ねた時のこと。
尋ねられた人は、こう答えました。
『毎日、楽しそうに、幸せそうに暮らしてください。そうすれば、あなたを見た人は、あなたのようになりたくて、我々の教えを知りたいと思うようになるでしょう』
と。

私も、いよいよ前期高齢者になったら、楽しい楽しい、ご隠居読書生活を始めましょう。

そして、その姿を見た若い人達が、
『あんなに楽しそうに暮らせるのなら、年を取るのも悪くない』
『あんな幸せそうな高齢者のいる日本って、良い国かも』
と思ってくれたら、私の存在も、人々のためになるのではないでしょうか。


今後、また、ふっとつまらないなあ、と感じることがあったら、今日書いた、この記事のことを思い出そうと、心に決めています。


今日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。
生きているのがつまらないなあ、と感じるのは、自分のこの先の将来に、飛躍や成長がもうないと、半ばあきらめているからなのでしょうね。
ただ、noteを続けていることは、私にとって、わずかでも成長への望みが感じられる行為です。
これからも、noteで書くことは続けて行きたいと思っています。





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