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望むこと

本気で望むことはあるだろうか。
何かが欲しかったり、何かをなしたかったり。
思い描き、やると決まっていることだと受け入れることができるのだろうか。
私は意外と難しいと思うのだ。

本当に欲しいもの

人間が本当に欲しいものは意外と、少ないのでは無いだろうか。

私は彼女がいない。
彼女が欲しいかと聞かれたら、顔をブンブン振りながら「欲しい」と答えるだろう。

そんな私の前に仙人が現れたらどうだ。
「君の彼女となり得る女性を今すぐにここに呼ぼう」と
当然私は顔をブゥンブゥン振りながら「大丈夫です」と答える。
何が大丈夫なのか….
つまるところ、私にとって彼女は本当に欲しいものでは無いのだ。

今の自分と彼女のいる自分との間には、都合の良い開きがある。

いつの日か私は、その都合の良い開きをつき進み。
いつの日か彼女のいる自分になる。
その程度なのだ。

望むことは選択肢を狭める。
彼女となり得る女性が目の前に現れたらどうなるだろうか。
本当は今、会うはずでは無いのかもしれない。
もしかしたら他にも彼女となり得る人がいるかもしれない。

私は仙人の問いにはい「はい」と答えながら、星の数ほどある選択肢を全て切り捨てる事になるのだ。
そんな勇気が私にあるだろうか。

選択肢の多さ

しかし「望むことは可能性を切り捨てることだ」
と言っていいのだろうか。
多分違うだろう。

今の選択が未来の可能性に影響をしっかり与えてくれるとは限らないのだ。
こ記事は二日間かけて書いているが、将来の私のためになるかはわからない。

ただ書くのが面白いから、一度書いておきたい事だから書いているのだ。

もし私が今という瞬間を生きることができているならば
私は仙人に「今すぐにお願いします」と言わなければならない。
私は心の微妙な傾きを今に落とし込まなければいけないからだ。

選択肢の数が多いことは豊かな人生には必要不可欠に思える。
だけど多分違うのだ。
選択肢の多さより今が重要になる。

日々何もせず、世界に取り残されたように1人で途方にくれていても
日々を積み重ね、世界の中心にいる気がしても
双方の価値は変わらない。

何をなしていても、この瞬間見る若草は、とても綺麗なものだ。
その瞬間の心の動きが、1人でいても、世界の中心にいても同じなのは
当たり前のようで、同時にすごく面白い。

もしその瞬間を切り取ることができれば、どちらも若草の輪郭と混ざり合っている。

本当に望むこと

本当に望むことは多分
今この瞬間に、全てを飛び越え、そこに有りたいと思う気持ちだと思うのだ。

望みの間の空白を意識せず
だから自分も消え去り

それ自体になってしまう感覚
そんな感じなのではないだろうか

そう思った。









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