見出し画像

オススメの社寺⑤ 室生寺と龍穴神社

 近代(明治時代後半)まで女人結界にょにんけっかいが定められ、女性が参拝できなかった高野山。そんな時代にあっても祈りを届けたいという女性たちの願いを聴いた「女人高野にょにんこうや」と呼ばれるお寺がありました。

「高野山にはの、女は入れへんがのう、この慈尊院じそんいんまでは上がれるんやしてよし。そやよってに、ここは女人高野と云うんやして。花は知ってたわの」有吉佐和子著『紀の川』冒頭に描かれる万年山 慈尊院の他に、妙法山 阿弥陀寺不動坂口女人堂、そしてこちらの宀一山べんいちざん 室生寺が女人高野と呼ばれました。

室生寺むろうじ
山号 宀一山べんいちざん
宗派 真言宗 室生寺派の大本山
本尊 如意輪観音(重文)
創建 宝亀年間(770-781)
開山    興福寺の僧 賢憬或いは修円

 中世、興福寺の末寺でしたが、徳川5代将軍 綱吉の母、桂昌院けいしょういんの寄進によって堂塔の修理が行われ、元禄11年(1698)には真言宗豊山派の寺となります。昭和に入り豊山派から独立し、真言宗室生寺派大本山となって現在に至ります。

シャクナゲ(石楠花)が有名です。ちょうど今頃キレイなのではないでしょうか。

仁王門
金堂
弥勒堂
1998年の台風7号で背後の杉が倒れ、塔の屋根が大破。たまたま被害の少し前に訪れていたものですから、ニュースを見た時はショックでした。幸い本体は無事で修復作業を経て2000年7月見事に蘇りました。
如意輪観世音のご朱印


室生寺背後の室生山は、三輪山と伊勢の斎宮跡を結ぶ直線、いわゆるレイライン上にあります(太陽の道)。太陽祭祀と雨乞い。古代において重要な祭祀場所であったのだと思います。


室生龍穴神社むろうりゅうけつじんじゃ

主祭神 高龗神たかおかみのかみ 

式内「室生龍穴神社」に比定される古社。祈雨・止雨の神として国家的崇敬篤く、文献では、『日本紀略』弘仁9年(818)7月16日に「山城国貴布禰神社(貴船神社)と大和国 室生龍穴の処に雨を祈る」と見えます。明治の神仏分離までは、室生寺の本地仏の鎮守として支配下にありました。

樹齢600年以上とされる鳥居前の大杉
 拝殿には「善女龍王」の扁額へんがくが掛かっており、こちらではご祭神高龗神=善女龍王と考えられているようです
春日大社若宮の旧社殿が譲られた「春日移し」の本殿
巨樹がたち並ぶ境内はやはり空気が違うように感じます


吉祥龍穴きっしょうりゅうけつ(奥宮)


 善女龍王ぜんにょりゅうおう伝説

 善女龍王は始めは奈良の猿沢の池にいたが、采女うねめ某が身を投げたので、死穢し けがれをいとうて春日山の香山こうせんに移り住んだ。しかし、ここにも屍をすてるものがあったので、さらにこの室生に移ったのである。

 室生の高僧 賢俊けんしゅん 僧都そうず(僧正に次ぐ僧官)が、龍王の生身を拝みたいと願をたて、ひとり龍穴の中を進んでいった。暗い道を四、五百メートル進んだ時、とても明るいところへきた。そこに一つの宮殿があった。僧都はその内側に立って、宮殿の内をうかがって見ると、朱簾の中から光がさし、机の上に法華経が一部置かれてあった。

 間もなくひとりの男が僧都の前に現れ、「何用あって、ここへきたか」と問う。僧都は、「龍王の生身を拝したいので来ました」と答えた。男は重ねて、「ここにて対面はかなわぬ。穴を出て三百メートルばかり去ったところで会おう」と言ったので、僧都は穴を出た。すると、龍王は荘厳な衣冠を着し、腰より上を水面に現した。僧都は、あまりの尊さに、地に伏して拝んだ。間もなく龍王は姿をかくした。

 後に、僧都はここにほこらを建て、龍王の像を刻んでまつった。これから後、雨乞いには、この社で経を読めば、龍穴の上に黒雲がたなびいて、たちまち大雨が降った。このほこらを龍穴神社とよんで、今もある。(大和の伝説より)


 京都 貴船神社と岡山 備前龍穴あわせて〝日本三大龍穴〟というそうです。貴船神社は奥宮の本殿の下にあって見ることはできませんし、備前龍穴は行ったことないですが、何だかわかりにくそうな場所らしいので、行くんだったら、苦労せず見ることが出来て身近に龍脈の気を感じることができるこちらが良いんじゃないかと思います。知る人ぞ知るパワースポットです。行かれたことのない方はぜひ一度行ってみてはいかがでしょう。

最近見ないですけど、以前は時々不思議な雲を見ましたよ。


この記事が参加している募集

一度は行きたいあの場所

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?