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【3】日ソ開戦前の状況~日ソ不可侵条約〜


前回の記事はコチラ。


今回はここから。
日本の戦況が悪化していく様子が書かれています。


大東亜戦争も3年有半の長期にわたり、その諸戦におけるハワイ攻撃で米太平洋戦艦の全滅、香港、フィリッピン、マレー、シンガポール、スマトラ等 席巻した赫々たる戦果も、物量を恃む米軍の攻撃にその態勢は逆転し、北はアリューシャンのアッツ島、南はガタルカナルやブーゲンビルの島々に撤退を余儀なく、フィリッピンのレイテ島に逆上陸の米軍はフィリッピン方面軍山下奉文大将統いる皇軍の精鋭を随所に壊滅的打撃を加え、余勢をかって本土防衛の拠点沖縄にせまり、その艦戦機は本土近海より首都東京を3月及び5月に大空襲を行い帝都は焦土と化した。


「日ソ不可侵条約」の文字

一方、当面するソ満国境にあっては、ソ連戦車軍の移動が頓に活発となり国境全域について実に10,000台に及ぶといわれ、わが向地視察団の報告にも大きく取上げられていた。

またソ連の国境侵犯も各地でおこり緊迫した空気が流れていたが、僅かに支えられた「日ソ不可侵条約」をもって、関東軍は最悪の事態をさけながら新防衛地区の防衛警備に腐心していた。

第5軍に於いても5月以降、第135師団を東安地区に、電信第46連隊と第9遊撃隊を牡丹江に、第15国境守備隊を虎頭に、またチャムスに第148師団編成の準備に入り、また各師団に遊撃隊の編成が下令された。

これより先3月には、戦車隊を含む第121師団は沖縄に転出し前後して内地防衛要因として将校および下士官の選抜者を釜山経由で転出、その残務整理も終わらぬ5月、第2次要員が朝鮮清津経由で6月13日 内地の各軍管区に到着した。
この頃対馬海峡は厳重な警戒態勢に入っていたのである。

第2次要員編成と同時に造船、電気等の特殊技能者の内地転出、続いて19年動員計画令に基づき、在満邦人の動員準備に入った。
かくするうち防衛地域の縮小となり、第5軍司令部は東安より虎林鉄道を南下し棭河に移駐したのである。


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