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【部屋のあかり】性格

わたしの兄弟よ、わたしの涙をたずさえて、君の孤独のなかへ行け。わたしは愛する、おのれ自身を超えて創造しようとし、そのために滅びる者を。

ニーチェ, 1966, 世界の名著 46 ニーチェ, 『ツァラトゥストラ』, 中央公論社, p.128.

いまは朝の8:30で、僕は実家の自室に座ってパソコンを打っている。最近はnoteに文章を直に打つことが多かったが、今日はWordを開いて執筆している。noteの画面は文章を横書きで表示するから、縦書きで文章を書くのは久しぶりだ。
日曜日だが、家には誰もいない。いたって静かだ。道を挟んだ公園のほうから時おり、人の声だったり、鳥の声だったりが聞こえる。ものごとの間隔が十分にとられていて、その隙間に、時間がゆるやかに流れている。

ふだんは東京の中心のほうの寮で暮らしているから、帰ってくるたびに不思議な気分になる。実家にいるときは寮の暮らしが夢の出来事のように思えるし、寮にいる時は、実家の暮らしを忘れてしまう。その二つが、僕のなかで地続きの世界になっている実感があまりない。
 
二つの暮らしに質的・実際的な違いがあるように、僕の性格も、どちらの場所にいるかによって、多少の変化がある。たとえば東京にいるときは、常に何かを考えている。頭で考えている、と言ったほうがいいかもしれないけれど、自分がどのような状態なのか、他人に口で説明できる状態でいるように迫られている気がする。そして、そのことに疲れてくると、ひとりになれる場所を探す。社会学者の岸政彦先生が「人が多い場所でひとりになろうとすることほど、金がかかることはない」とどこかで言っていたが、金だけでなく、労力がかかる。その労力で、さらに疲労が増していく。

いっぽうこちらでは、東京にいるときよりも、暮らしぶりが落ち着いている。たとえば些細なことだけど、TwitterやInstagramに費やす時間が減る。たまに開いて見るが、そこで発生している話題に乗って行こうという気が起きない。むしろ、食器を洗って、風呂を沸かして、マラソンに行ったほうがいい気がする。また、地元では、人に対する印象が変わってくる。東京にいたときとは少し違って、自分から人に関わりたいという気分がすこしずつ湧いてくる。それはよく言うように、「田舎では他の人と助け合わないと生きていけない」という話と関係があるかもしれない。
そして、これもさきほど書いたことの裏返しになるが、おのれが何者であるかを明確にすることへの圧が少ない気がする。ただもう、「俺は生活している人間なのだ」という気分が強い。いずれにせよ、東京で書いていた文章を読み返すと、どこか強い圧を感じるくらい、性格が変わっている。
 
別に、ここでどちらかを褒めたいのではない。どちらにも楽しみはあり、地獄もあるだろう。田園を賛美する詩人は、往々にして暮らしの視点が欠けているし、また逆も然りだ。僕は二つの違いを面白いと思ったから、あえて文字に残そうと試みた。

【部屋のあかり】
・2024. 3. 8から3.11までの記録
目次
 1. 性格 (3/11)
 2. 家郷 (3/12)
 3. 都会的なもの・村上さん (3/13)
 4. 街のあかりの数だけ、そこには人間がいるのに (3/14)
 5. 部屋のあかり (3/15)
 6. おわりに 港町の門 (3/16)

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