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時原敬一、弦を鳴らす。(抜粋6)

                    ( geralt 様 画像提供 )

台風の影響が気になりますが、皆様のエリアは御無事でしょうか?
昔の S F 小説のように異常な設定の中で、いかにして人間が生き延びる
かというテーマが昨今の日常になりつつあります。

せめて空想の中では自由気ままに過ごしたいものです。

さて、連続ドラマ風に『音庭に咲く蝉々』の断片を抜粋して、皆様に
お届けしています。主人公ケイ(時原敬一)が紆余曲折を経て、ついに
音楽祭のステージへ上がります。そこで一体何が起こるのか?


nikolabelopitov 様 画像提供

 ひび割れた開演のブザー。
 客席側の照明が真っ暗に落とされ、一瞬、くすんだ溜め息が場内に洩れ広がる。じっくりと炙るように、ステージ上には夕陽色の光が満ち溢れていく。樹木の蜜を舐める無数の虫たちの羽音、拍手、喚声、悲鳴。聴衆のまだ凌辱されていない脈打つ耳の中へ、ケイのアルペジオがゆったりと挿入されていく。
 
 一音、一音、正確に弾かれる弦。その中に宿命と悲哀が秘められている。ケイが奏でると、六本の弦に六体の精霊が宿り、歪んだ共鳴の中で神話の幕が上がる。それは音楽ではなく、聴覚世界に成立する奇跡の華道を思わせた。耳に聞こえる華。天上から舞い降りた先祖の霊が、ケイの首筋にからみつく。
 憑かれたケイの指が、伝統的な立華瓶に花を生けるような手つきに変わった。大胆な曲線を描く立華の構図、〈真と副のツルウメモドキ〉〈真正の白菊〉〈受の黄菊〉〈流しの老松〉〈控えの菊〉〈胴の伊吹〉〈色切りの金柾〉〈前置の黄楊〉〈草留の小菊〉〈木留の夏櫨〉………………。
 
 遠い雷鳴………………。
 錆色の斜光に包まれた丘に立つ五人の神々が、約束された舞台で紀元前のデジャヴを引き起こす。砂に埋もれた幻の古代劇場が、波動を受けて少しずつ肩を現わす。石材が崩れたまま時間が止まった丘に、今、神話が再生されようとしている。
 繰り返し奏でられるアルペジオが、会場という名の頭蓋骨に響いて群衆に幻覚成分を送り届ける。誰もその酔いを覚ますことはできない。遺跡に咲く花のように、歴史の時空を目まぐるしく転調するケイのアルペジオは、噎せるような夢幻を誘う。
 
 ダイコクが冷たい金属片にスティックを打ち、絶対的な時を刻み始めた。秒針に似たダイコクの手の振り。それは平凡なハイハットには生じない、古代の青銅打楽器を彷彿とさせる響きだった。儀式は時間性を帯び始めていた。姿を持たない時計が群衆の心臓に巣を作り、鼓動しはじめていた。
 ドラムの波動は聴衆の心臓と共鳴する。右心房の洞結節から信号が伝わり、心筋は収縮と拡張を繰り返す。全身に満たされる血液循環が命の源泉を約束し、熱力を鼓舞する。
 
 ユカの細い指が鍵盤に触れたとき、高原に降り立つ青い霧がステージと会場全体を包み込んだ。眠っていた細胞壁に聖水が散布され、人々の意識は瑠璃色の渓流に巻き込まれた。数千年の夢から醒めた神樹がようやくエメラルドの新芽を噴き出そうと震えている。次第にもやもやとした幻覚のカルスが誘導されていく。アセチルコリンの幻風が一陣の爽快夢を与える。


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「バッハよ、モーツァルトよ、くたばるがいい!」巻き舌が冴えるヴァーミリオンの叫び声が、炎の神託となって炸裂した。咲き誇る大輪の赤い不凋花。不凋花が炎を生み、生み出された炎と炎が巻き付いて火柱となる。賽ノ神のごとく、火柱は神々の氣を呼び込んで、狂ったように身悶えする。
 彼女はスペインの舞踏服を短く切り裂いたような、ぼろぼろの衣装で登場し、これ以上はないと思われる極限の赤色を炸裂させていた。ほとんど薔薇の花に手足が生えたような印象だった。ギリシア神話のアフロディーテが狂い咲き、アラビア錬金術師が水銀と硫黄で怪しい朱色を合成する。
 空爆のような喝采。すでに群衆は噴火していた。噴火に度肝を抜かれ、観念の外枠が外されると、激しい興奮の潮流に失神する者さえ現れた。
 
 観念が自在になると現象界も変わる。
 シンバルが打ち鳴らされた瞬間、群衆は始めて太陽が昇った日の記憶を取り戻したに違いない。神の瞼が開きかける黎明。陽射しを受けて目覚めた蛇が石柱に絡みつく。太刀が振り下ろされると、塞き止められていた大量の光が神殿に満ち溢れた。小岩が転がり落ちて渦を巻き、膨れ上がって土石流と化すダイコクのタム連打。連打、連打。そして・・・・、連打。
 
 僕のベース音が大蛇と化して、ダイコクのタムに連動する。濡れて輝く密林の奥に響きわたる狩りの笛。重いキックが会場内に連打されると、いよいよ群衆の乗りが加速していく。数百人のムンクの叫び。トーテムポールに群れる未開人の踊り。
 歯切れのよいスネアドラムが規則的に打ち込まれ、野生の心臓が目覚めると、氷山のごとき脂肪が燃やされていく。重く重く粘りつくベースの弦は、決して固まることを知らない陶土のように、変幻自在に何かを象り影を伸ばす。この空間においては、物理的計算など許されない。

 大蛇に締めつけられ軋む固定観念の鎧。殻が割れ、表皮が剥けてしまえば、皆、原始人に回帰する運命にある。骨の洞窟に隠れていた内臓たちが笑い声を上げ、原始時代の舞踏を反復する。檻のような肋骨は液状に溶けて流れだし、勃起した心臓が目に見えぬ翼を広げて黒い空を眺めている。

                         つづく
 

🌟『音庭に咲く蝉々』菊地夏林人


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