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京の夏の旅:賀茂御祖神社(下鴨神社)を参拝、ご祭神は玉依姫命と...

七月、京都市左京区にある賀茂御祖神社かもみおやじんじゃ、通称下鴨神社しもがもじんじゃをお参りしました。
先に京都市北区にある賀茂別雷神社かもわけいかづちじんじゃ、通称上賀茂神社きあみがもじんじゃをお参りしているので、上下賀茂社の参拝成就です。

通称の下鴨神社のほうが一般的に分かりやすいと思われますので、以下本文でも下鴨神社と呼ばせていただきます。

上賀茂神社で「京の夏の旅」として、国宝の本殿・権殿の特別参拝をさせていただきました。
下鴨神社でも同様に国宝の本殿2棟と神様の台所と称される大炊殿おおいどのの特別参拝が行われています。
金額は大人800円、9月30日まで開催の予定。

下鴨神社 二の鳥居
下鴨神社 楼門

特別参拝は、上賀茂神社では神職のお祓いを受けてから内庭より本殿・権殿を参拝させていただきました。
下鴨神社ではガラスばりの屋内から担当者のご説明で本殿を「鑑賞」。その後、自由に大炊殿へというコースで、本殿を「参拝」したわけではありません。特別参拝とは別に中門からふつうに本殿を参拝。

暑い夏の日で屋内からの鑑賞は結構なのですが、中門からではない参拝だともっと良かったかなと思う。例えば境内で一陣の風が吹いただけで、神の息吹と思われてありがたがるシンプルな参拝者ですから。
それでも神様へのお供えを展示している大炊殿の拝見はふだん見ることがないので新鮮でした。

下鴨神社 舞殿 奥に中門
下鴨神社 中門
下鴨神社 中門より拝殿を
下鴨神社 拝殿

さて、下鴨神社とはいかなる神社かというと、京都でも古い神社のひとつです。
平安時代の延喜式神名帳に「賀茂御祖神社二坐 名神大月次新嘗相嘗」と記される格式のある神社。上賀茂神社とともに山城国一宮を称され、明治に至り官幣大社に列します。

鎮座地は上賀茂神社の近くを流れる賀茂川と大原八瀬のほうから流れてくる高野川が合流する地点の約1キロ北に鎮座しています。河川の合流地点から北へほとんどまっすぐな参道は、糺の森という森の中を通ります。
下鴨神社を訪れる際はぜひこの糺の森を歩いていただきたいのですが、お時間のない方なら、下鴨神社の西を南北に走る下鴨本通りにバスが走っていて、バス停下鴨神社前で降りると神社本殿には近い。

桔梗之介も上賀茂神社からバスで下鴨神社へ向かいましたので、往路はこの下鴨神社前で下車し参拝、復路は糺の森をとおり出町柳へ出ました。

御祭神は二柱。東の本殿に玉依媛命たまよりひめのみこと。上賀茂神社の御祭神・賀茂別雷大神の母。タマヨリヒメというと海神の娘で神武天皇の母となる方を思い出しますが、別の媛さまです。

西の本殿は賀茂建角身命かもたけつぬみのみこと。東本殿の祭神・玉依姫命の父。つまり賀茂別雷大神にとって母方の祖父にあたる。賀茂建角身命は神武天皇の東征に際し道案内をした八咫烏ともいわれています。
賀茂別雷神の親が祀られているので、御祖〔みおや〕神社です。

京都でも古い神社なので創建年代はハッキリしません。社伝によると第十代崇神天皇の時代に瑞垣の修造が行われたという記録があるそうです。
奈良時代初期に編纂された『山城国風土記』の逸文には、賀茂氏が大和から移動してきたルートや別雷神誕生の由緒は記載されており、これらは上賀茂神社の存在を裏付けますが、下鴨神社への言及はありません。
その『山城国風土記』逸文には、賀茂建角身命と丹波から迎えた妻・伊賀古夜日賣命いかこやひめのみことと娘の玉依姫命は蓼倉の里の三井社に祀られていると記している。

ということは、奈良時代の初め、賀茂別雷大神の御祖を祀る社は下鴨神社ではなく蓼倉の里の三井社だと思われます。
この三井社が下鴨神社へと発展していった可能性もあるでしょうが、現在下鴨神社の本殿の西に三井神社は現存し一棟に一柱づつ三棟三柱を祀っているので、三井社とは別に下鴨神社が造られたとするほうが自然でしょう。

本殿と大炊殿との中間に三井社はあるので、「京の夏の旅」では三井社を近くで参拝することができます。

それではいつごろ下鴨神社は創建されたのかというと、谷川健一編『日本の神々ー神社と聖地ー』によると奈良時代中期ではないかとしています。

また、同書によると比叡山から松尾大社を結ぶ直線上に下鴨神社糺の森が位置しているといいます。この比叡から松尾の線は夏至の日の朝日が昇る線だともいいます。
国や地域を超えたレイラインには関心がありませんが、小さな盆地の中でのことであれば話は別です。

ともかく下鴨神社がこの地に創始された理由は賀茂氏のみならず松尾神社を奉斎する秦氏の影響も考えられそうです。

そこで、下鴨神社のご祭神は現在と違う説があることを知りました。延喜式神名帳にあるように古くから二坐であり、ひとつは別雷神の母玉依姫命であることは間違いなようですが、もうひと柱に異説有り。

『山城国風土記』逸文では賀茂別雷神の父、つまり川に流れてきた丹塗矢は乙訓の火雷神と明記しています。しかし丹塗矢は松尾の大山咋神であるとする説がある。
思うにもともとは『山城国風土記』逸文にあるように別雷神の乙訓火雷神の子だと思う。別雷神の名称や、延喜式神名帳に「賀茂別雷神社 亦若雷」と書かれていることも、それを示唆している。

ではなぜ別雷神の父、もしくは賀茂御祖神社の祭神が大山咋神なのかというと、賀茂氏と秦氏との関係が強化されていったのでしょう。その結果、賀茂別雷神の父が松尾の大山咋神とされるようになった。

そして奈良時代中期までに、その強められた絆の証として下鴨神社が創建されたのかもしれない、と妄想する。
下鴨神社の御祭神に大山咋神であるとするのは、下鴨神社の禰宜の子である鴨長明も著書に記してもいるという。
実際、現在のように、本殿に賀茂建角身命がいらっしゃるのに塀をへだてたとなりの三井神社にも賀茂建角身命がいらっしゃるのは不自然な印象をもっている。三井神社の本殿は三棟あって一柱づつ住まわれているので、ひとつの神殿に合祀されているわけではないからなおさらです。

大山咋神は松尾と日吉(比叡)の山の神である。
「みおや」と言うのですから、ご両親を祀っているほうが自然な気がする。そして名称から察するに最初からご両親であったほうが自然だと思われる。秦氏との関係性が緊密になった時代に賀茂氏と秦氏の絆の象徴として下鴨神社が創建されたのではないでしょうか。
その創建の地は大山咋神がいらっしゃる比叡と松尾をむすぶ線上で、なおかつ賀茂氏ゆかりの賀茂川の近くということで。

と、妄想を働かせながら真夏の境内を歩く。長くなったので境内のほかの神社は次回へ。



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