違いと生きて死なないために

現代日本でただ生きることは難しくない。
物価が上昇しているとはいえ一応は先進国なわけで、アルバイトをたくさんすれば若いうちは食っていけるし、もちろん生活保護がある。

ネットを見ていると生活保護にあまりいいイメージは抱かれていないようだし、ホームレスも(生活保護は)惨めだからと言って衣食住のすべてを少しずつ欠いた生活を送っている。

生活保護を受けること…………つまり生物として食って寝て単に生きて、人間らしく社会に関わったり夢を追ったりしないことはネガティヴ=マイナス=不幸ではないと思う。

ただ生きることには意味がないが、悪もない。動物に善悪がなくて動物に関わる人間に善悪があるのと同様に。だから単に生きることは0である。

しかしそう観念的に考えずとも、現実的に、身体的に、生きるだけでもさまざまな幸福…………快楽というべきそれらがある。
食う、寝る、散歩をする、ゲームをする………これらがあるため、ただ生きることは0どころかプラス=ポジティブ=幸福である。

だというのに人間が自死すら選ぶのは、過去あるいは経歴あるいは生まれつきの性質を背景にそうするのは、違いを不平等かつ非合理的に不幸せに考えているからだ。

たとえば私は発達障害者かつ元不登校で、この2つの属性にはネガティヴな=不幸せなイメージを抱かれている。
しかし、以前の記事で書いたように、違いこそが人間関係と社会ひいては人生を豊かにする。にもかかわらず特定の違いにだけ特殊なイメージを抱くのはなぜだろうか。

たとえば「音楽はなによりも素晴らしい」とか「道徳的に生きることこそ幸福である」とかの意見は特殊なイメージではあるが、その人の人生を幸福に導くという意味で許される。ポジティブな=幸福につながるイメージはいかなる場合であれ容認される。これはいわゆる信仰や信念である。

しかし、ネガティブな=不幸なイメージはそうではない。なぜなら、それは当人である私はもちろん、私以外の人間でさえ幸せにすることがないからだ。だから私は私の違いに対するネガティブなイメージを無視して生きるべきである。
世間のいかなる声があれど、関係はない。

私たちはあらゆる違いを尊ばねばならない。
そして問題は…………どうすればネガティブなイメージだけを捨てて生きられるか、ということ。

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