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発達障害の私は、美術館をはしごするの、やめました

私は美術館が好きです。

大学時代に西洋美術を専攻し、学芸員資格を取得したほどです。

ライターなので、海外の美術館の音声ガイド原稿も書いたことがあります(お仕事募集中)。

美術館ほどではないですが、博物館や文学館も好きです。
あ、大勢の人とわいわいするシチュエーションは困り事が起きやすいので、公民館や体育館は苦手です。

だが、美術館を1日にいくつもまわること(=はしご)は、しない。
正確には、発達障害の診断を受けたことを機に、やめた。

どうやら、発達障害者は健常者に比べて脳が疲れやすいらしい
医学的な話なので詳しくは書かないけれど、外からの刺激や情報にめっぽう弱いらしい

診断を受けるまでは自覚がなかったが、私も疲れやすい方に分類されると気づいた。

ふつうの人なら「あー、楽しかった!次はここ行こうね」ってなる程度の刺激が、
私にとっては脳をへとへとにさせる。

発達障害者の美術鑑賞は、過集中の渦中で、必死に魂の爆発を感じ取ること

アート鑑賞では、ときに作者の魂の爆発を感じる。

美しい色彩、精巧に描かれた人体、静物、聖書のストーリー…もちろんそれらもだけど。

意味のないアートなんて、ない。

だからどんな作品にも、作者の意図やメッセージ性がある。

私は、それを全力で受け取ろうとする。

キリスト教や世界史の知識に乏しいぶん、描かれた背景やモチーフについてのキャプション(説明書き)を読んだり、音声ガイドで聞いたりしながら、全力で理解を深めようとする。

作品の美しさに惹かれたら「なぜ、こんな作品を描いたんだろう?」と必死に考える。それが一番の目的で、醍醐味だと感じているからだ。

だけど、必死に考えたところで、作者の気持ちなんて感じ取れない。

発達障害者だから。人の感情の変化に気づくのが、苦手だから。そのあたりは、キャプションや音声ガイドにいつも頼りっぱなしだ。

そして、ここでも発達障害の特性「過集中」を存分に発揮する。過集中がつづいてるから、思う存分アートの世界にのめりこめるんだ。

過集中って何なの?健常者には理解し難いしくみ|カジヤマ@発達障害|note(ノート) 

展覧会の規模にもよるものの、1~2時間くらい考え続けていると、

当然、脳は疲れ果てる。過集中でいられるのもこの時間が限度。

だけど、私は美術館が好き

好きな画家も作品も、山ほどいる。好きなことをもっとやりたいから当然、2館め、3館めとはしごする。

東京や大阪などに出向いた時はなおさら、滞在時間が限られているから、はしごしようとする。

だけど、はしごしたところで、2件目からは集中できない

1件目の記憶が飛ぶ。私、何のために美術館をはしごしているの?と自問自答するようになる。

それでも、決して安いとはいえない入館料を手に、次を目指そうとする。


「なぜ、ひとつ展覧会を見終わっただけでこんなにも疲れているの?」
と疑問に思いつづけていた。

そんな折、発達障害と診断されて、ようやく「脳の疲れやすさ」に気づいた。
私にとって、美術館は刺激と情報だらけ。疲れやすくて当然だった。

一気に刺激や情報を取り込もうとすればするほど、脳は疲れやすい。
はしごしたところでストレスだ。

だから、ひとつひとつの作品との対話を大切にして、その時間を自分の中に刻み込むようにしたほうが、有意義で、幸せなんだと。

そのことに気づいてからは、私は鑑賞することの幸せをかみしめることができるようになった。

今まで出会った作品たちは、いつまでも心の中に残り続け、発達障害のある私を、突き動かしつづける。


興味のある展覧会ばかり開催されてる時期は、確かに、一日に何件もはしごしたくなる。

だけど、発達障害の診断を受けてからは、時間にゆとりを持つようになった。

会社勤めじゃないぶん、時間の制約もない。

はしごしなくても、来週あたりにどこかで行こう。また文章がとっちらかり始めたころ、息抜きも兼ねてインスピレーションを受けに行こう…とポジティブにとらえることができるようになった。

楽しみを後にとっておける余裕があることは、贅沢で、幸せで。

一度にいくつものことをやろうとすると、失敗しやすいのが #ADHDあるある だから(笑)

私はむやみやたらに同時進行をしません。

美術館にいる時のように、マイペースだけど、ひとつひとつに真剣に取り組むのです。


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