見出し画像

自分にノーと言えること

すべての物ごとに肯定ができるのか否か。おそらく否であろう。肯定することもあれば、否定することもある。
その意見自体の是非は問われない。
至極当然のことだ。

ところがどっこい。自分のことはどうだろう。
SNSが発達してきた頃からだろうか、「自己肯定感」という言葉をやたら耳にするこのご時世。
途端に肯定することが正しいとされてしまっている。

僕はこの「自己肯定感」という言葉が嫌いだ。本当に嫌いだ。あたかも肯定することが前提にあるかの如く存在している言葉が嫌いだ。

前にも書いたことがあるが、僕は敢えて嫌いという尖った表現は成る可く控えて、苦手という言葉を使うようにしている。そんな僕が声を大にしてもう一度言わせていただきます。「自己肯定感」が嫌いだ。
もっともっと言うと「自己肯定感」という言葉そのものより「自己否定感」という言葉に耳馴染みがないことが嫌いだ。

(あ、ごめん。補足だけど、「自己肯定感」っていう言葉が嫌いなだけで、この言葉を使う人は嫌いじゃないからね。脱線したけど、その辺も踏まえて是非読み進めて頂きたい。)

否定的?素敵じゃないか。駄目だと思う自分にNoと言えるその感情はとても大事だと思う。

そもそも肯定的な意見やフィードバックを受けることは、自己肯定感を高め、モチベーションを向上させるのに役立つ反面、過度な肯定はリスクしかない。

僕は、先に申し上げておきますが、「自己肯定感」は高い人間だと自負している。周りにもよく言われるし、MBTI診断なんかの性格診断にも自己肯定感が高い、自己愛が強い、メンタルが強い。この辺りが大抵書かれている。

そんな自己愛強めの甘々人間である僕の経験上、
過度に肯定的すぎるあまり、自己満足感が高まりすぎて、自己成長や改善の意欲が低下してしまうことが多々ある。これは本当によろしくない。
更に過度な肯定は現実との乖離を生じさせやすくすると思うのだ。自分の実力や能力を過大評価してしまうことにつながり、失敗や困難に直面した際にとんだ跳ね返りを食らう。痛い痛い。
自分を挑戦し、向上させるためには、時折否定的であることはうんと大切なことなのだ。

肯定的であることは素晴らしいことだが、結局はバランスが大事だと思う。
なのでこれからの僕らは、現代の過度な「自己肯定感」プッシュは辞めて、「自己否定感」というものを是非頭の片隅に置いて置こうではないか。
多分世間で言われている「自己肯定感」とは簡潔にすると、自分をどれだけ甘やかすことができるかだと思う。甘やかすだけが優しさではない。

時に優しく、時に厳しく。

そしてくれぐれも「自己肯定感」が低いとされる人を責めないこと。そんな人は大抵自分に厳しくできる素敵な人なのだから。

今週も読んでくれてありがとうございます。
「自己否定感」を大事にしてみた結果メンタルが下がってしまったら、是非僕に相談してください。
責任は負います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?