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フェミニズムと思いやり

もし究極の「思いやり」が存在するならば、フェミニズムは存在しないのではないでしょうか。ぼくは元々、男女分け隔てなく、もっと言えば生物分け隔てなく、おしなべて思いやりを持って接することができるほど、他者を慮る(おもんばかる)ことができるのであればフェミニズムは存在しないのではと考えていました。

 しかし、答えは否でした。

世の中には無意識のうちにかけられた呪縛のようなものが沢山存在しています。差別をしてしまうのは必ずしも、ぼく達個人の問題だけではないのです。社会や文化などといった構造によって個人が動かされ、個人もそのような社会や文化を再生産していると言えます。まずはそれを知ることが何より大事なのです。

哲学の父、ソクラテスは「無知の知」という考え方を基本としていました。文字通り、意味は「無知であることを知っていること」が重要であるということです。つまり、「自分がいかにわかっていないかを自覚せよ」そんな感じの考えですね。

「思いやり」とは、誰かの為に思いを馳せ、行動に移すこと、知らなければ思いは馳せられません。無知の「思いやり」ではどうしても限界があります。差別や偏見が個人の心の問題だけでないのなら、解決できないのです。

無頓着でいることが優れ、賢く、幸せなように見えてしまいがちな世の中ですから、身近であればあるほど、知らないことが沢山あります。

 3月8日は国際女性デーでした。本当は当日に投稿したかった。デリケートな話題だと思うこと自体が宜しくないことなのですが、ぼくというマジョリティの立場にある人間がどんな風に声をあげるべきか、考えあぐねた結果投稿が間に合いませんでした。というか、間に合わなかった時点でやめようと思いましたが、フェミニズムについて考えることに日にちなんて気にしている方が間違っていると思いましたので投稿に至った次第でございます。
拙いエッセイですが、何か少しでも誰かの考える切っ掛けになれば幸いです。

今週も読んでくれてありがとうございます。
全ての女性に愛とリスペクトを込めて。

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