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8ビートCとD

ぼくはこのエッセイを書く際、カッコつけず、成る可くありのままの自分でいることを心がけています。
少しでも気を抜くと忘れそうになります。

当たり前のことですが、これは日常生活においても随分大事なことのように思えます。人は必ず変身願望みたいなものがありますから、多かれ少なかれカッコつける生きものです。先日遂にぼくのエッセイに1500のいいねを頂いたという通知を受け取りました。とりわけぼくは、調子に乗りやすい性格なのでふとカッコつけてしまっているときのぼくを思い返してみました。
ぼくは大体、向上心と承認欲求を混同していることに思い当たったのです。

カッコつけないことは、すなわち向上心に素直であることです。こんな風になりたいとか、これができるようになりたいと思うような変身願望はみんなにあって当然です。こういうのは個人が自己の能力やスキルを向上させようとする内発的な動機付け要因です。人の目なんて関係ないのです。

一方、カッコつけるということは、すなわち承認欲求に基づくものであり、よく見せようとか、よく思われたいとか他人を必要とする外的な要因に影響を受けます。人の目というものが関わります。
これが間違っているとかそんな話ではないんだけどね、

これって物凄くむつかしい話じゃない?

だってよく見るのも、よく思うのも、「ぼく」じゃないんだもの。

誰かの判断を自分がするなんて無理だよ。
正解やゴールのないものは、大きな原動力になるのは確かなんだろうけど、麻薬みたいなものだと思うんですよネ。誰かの価値観に身を委ねるのは、一見すると楽に思えますが、自分の価値観をどこかに忘れてきて、いつしかそれに依存してしまう。


思い返せば幼少の、仮面ライダーになりたくて変身していた自分も、ミック・ジャガーになりたくて腰に手を当てて歌っていた自分も、ジャッキー・チェンになりたくてアパートの2階から飛び降りて骨折した自分も、どれもただあんな風になりたいと思う自分の精一杯だったと思うんですよね。

ぼくはカッコつけず、成る可くありのままの自分でいることを心がけています。カッコ悪い自分を見せることは勇気がいることです。そんなぼく達の生まれ育った日本には「落語」というそれはそれは素晴らしい伝統芸能があります。歌舞伎や講談とはちがう失敗やしくじりの集合です。そこには確かにカッコ悪いぼくやあなたがいます。

今週も読んでくれてありがとうございます。
与太郎ってカッコ悪くて、カッコいいんだよな。
読み返してみたけど、やっぱりぼくはカッコつけちゃうなア。

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