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気持ちの発散

気持ちが文字にできるって良いことですよね。最近ふとそんなことを思い浮かぶことがありました。

僕は小さい時から“作文”が苦手で、いつも居残りばかりしていましたね。
物事の“感想”ってのを言葉にするのがすごく苦手だったんですね。

たまに「これ、どうだった?」と聞くと、「良かった」としか言えないひとっていますけど、まさにそんな感じで感想を言ったり、気持ちを表現できなくて、「良かった」と言う事に何が悪いのかと思っていました。

作文が得意な友達に、なんでそんなにスラスラと文章が書けるのかと問うと、「そんなのはテキトーに思ったような事を書いておけばいいんだよ」と言われたのですが、僕にはそんな芸当はできなかったんです。

つまり“思ったような事”というのは、別に思ってもいないのに「思っただろう事として作り話をしろと」そういう事なのです。
うわ、むりむりむり。みんなそんな考えができるのかなと、はじめて知りました。

僕が作文が苦手な理由がそこでわかったような気がしました。

つまりは、その友達は感想文などというよりかは、小説のような自分という像の感じたであろう気持ちをひたすらに書いていたのです。
そりゃあ書けるよ!

でも、先生としては、それは本心ではないのでちょっと複雑でしょうね。
「この子はいい子だな」とか「いろんなことを考えられるんだなぁ」と褒めているのかもしれませんが、実は違うのです。
そういうことを考えているから、僕は作文がいつまで経ってもできないんですが、僕はその時は真面目に考えていましたから、カンニングをしたり嘘ついたり騙したりするくらいなら、宿題だってしなくていいし、なんなら理解なんてできていなくて成績が悪くったって構わないと思っていました。

だから、たいして何も思ったり考えたりしていないのに、絞り出そうと努力して「うーんうーん」と頭を悩ませていたんだと思います。

あとは、作り話とか、本心ではない作った気持ちを書いたとしても、それすらも恥ずかしいなと思っていたんです。
自分の気持ちをまっすぐ吐露するのってすごく恥ずかしい事だなと考えていたので、二重の意味で僕は作文という「行為」が苦手だったんですよね。


今はまぁまぁ好きです。毎日続けるくらいですからね。
不思議なもんで、突然やり出した事もいくらか続けて、自分の様子を第三者の目から見たり実際にその評判を聞いたりすると、楽しくなって続けられるんですよね。
でも、何かしら反応があるからやっているわけではありません。今まで続けていた事を途切れさせたくないとか、そういうわけでもありません。


なんだかふわっと考えて感想を言うと、単純に楽しいんですよね。
最近は気持ちを文章にしたり、聞いてもらう事でストレスを発散させたりすることも覚えました。

いろんな鬱憤を言葉でぐるぐるに丸めて捨てているような、そんな感じですよね。

そうやって言葉によって何かを噴出させているからでしょうかね。
言葉に出して嫌なことやストレスを表現するひとの気持ちがなんとなくわかります。
だから、そういうひとの“声”を聞いてあげたくなるんですよね。


言葉を受け止めよう、これからの僕は。

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