『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』を読んだ
奥野克己さんの『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』を読んだ。
いくつかおもしろかったところを自分の整理として書いておこうと思う。
未来のことを考えることが人間として”自然な”ことのように思っていたけど、そうとは限らない。おそらく、近代化に伴って内面化されてきたもの。
何かをしたあとに振り返りをすることが大事、ということは直線的な時間を生きる世界のなかでの真理に近いものかな、
振り返ったり反省したりするとき、その手前に時間に対するどんな観念をもっているか、という選択があることを覚えておく。
生きていく中ですべての事柄に対して、「よりよくしたい」という成長を前提とした価値観を持ち込まなくてもいい。(持ち込んでもいい)
自分の場合は「よりよく」のクセが強くあることで、内外にどんな影響が生まれているのか、を観察し続けていたい。
成長を実感することによる充実感、自己実現、クリエイティブ・テンションの考え方、それはそれでわかるし、そういうものから離れている時の、のびのびとした感じ、力の抜けた気持ちよさ、みたいなものもよくわかる。
狭間でいったりきたりしてたい。というよりかは、たぶんずっと固定されない(できない)。
各章の冒頭にニーチェの引用があるのがこの本の特徴のひとつで、そのうちのひとつが所有についてだった。
体感としてすごくわかる気がする。
見田宗介の『気流の鳴る音』に出てくるドン・ファンもカスタネダに似たような話をしていた。他にも、ハラリさんの「人類が小麦を栽培してきたのではなく、小麦が人類を家畜化した」というような見方も思い出す。
私有によって行き過ぎな格差が生まれていること、一方で豊かさや幸せを感じることと、持つ・持たざるはあまり関係なくあるように見えることも少なくない。
プナンの場合は、「分け与えること」が徳とされ、それが共同体の中で後天的に教育される、と奥野さんは述べる。それは、プナン社会が編み出した知恵、みたいなことだと思う。
これからも、自分にとって健康な所有との付き合い方を探究していく。絶対楽しい。
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