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【星蒔き乙女と灰色天使⑤】逆さの月と太陽は昇る


【7日目】逆さの月と太陽は昇る

 それからどれくらい経っただろう、ゾンビのようにふらふらと立ち上がって、とりあえず外の空気を吸おうとベランダに隣接した窓に向かう。ベランダといっても、洗濯物を干すためのスペースがあるだけで、それでも以前もらった花を育てていたけれど、私が肥料をあげすぎて枯らしてしまった。花の種類は――忘れた。

「・・・・・・ひっ!」
 今度は口から悲鳴が上がる。そこには、なぜかベランダ――いや、ここは二階だし、バルコニーって言うのが正しい表現かもしれない、の柵に二つ折りになって引っかかっているカグラちゃんらしき姿があって、こちら側が頭で見慣れない金髪が見えなければ、とても彼女とは気づけなかったかもしれない。
 それはまるで――

「親方、空から女の子がってやつかしら」
「・・・・・・ううう、それより助けてくれませんかぁ」
 へろへろとかすれた声でカグラちゃんはそういって、顔を上げる。いつからここに引っかかっていたのだろう。
 どういうバランスで落ちずにいられるのかはわからないなりに、とりあえず引き上げて家に招くことにした。多分彼女には害はないだろう、そう思った。
 
              ○
 
「いやいや、ご迷惑をおかけしまして」
 照れ隠しのように頬を掻きながら、カグラちゃんはそういって頭を下げる。さっきまで、うちのベランダに引っかかっていたとは思えない礼儀正しさだ。
「・・・・・・なんで?」
 さっきまでの錯乱が嘘のように世界には光が戻って、冷たく凍り付いた部屋に温度が戻る。目の前の脳天気な笑顔が、今はとてもありがたく思えた。

「えーっと・・・・・・」
 どう答えようかと迷う素振りを見せ、クリーム色の髪を指で梳くカグラちゃん。さらさらのセミロングの髪は、しっかりと手入れされているようで、見た目通り指通りもなめらかだ。癖の強い私からしてみれば、少しうらやましい。
「私にも詳しくはわからないのですが」
「・・・・・・」
 思わずスマートフォンに伸びた手に、カグラちゃんは大慌てで言葉を続ける。彼女の反応がもう少し遅れていれば、私の指は110をタップしていたかもしれない。

「ええと・・・・・・私は天使なんですけど・・・・・・ああ、そういうタイプの人ね、って顔でみるの、一旦やめてもらっていいですか?」
「・・・・・・」
「その年なら仕方ないか、って顔も出来れば控えてもらって。うーん、証拠を見せるとしたら――」
 部屋の中だというのに軽い突風のような風が吹いて、モスグリーンのカーテンを揺らす。キンモクセイのような甘い香りがして、柔らかい羽のようなものが肌を撫でていく感覚。
 思わず目を閉じて、再び目を開けると、そこには背中に虹色の翼を背負ったカグラちゃんの姿。作り物でないのは、緩やかな羽ばたきとそれに伴う風を感じることでわかる。
風が吹くたび微かに甘い香りが鼻をくすぐる。どこか、懐かしい香り。

「どうですか?」
「・・・・・・どうですか、と聞かれても」
 困る。今日は朝からおかしなことばかりだ。もしかしたら、まだ夢の中で、目が覚めたら――覚めたら。
「ごめん、カグラちゃん。急で悪いんだけど、ちょっとここつねってくれない?」
 はぁ、と不思議そうな顔をして、とことこ近づいてくるカグラちゃん。翼の出し入れは自由に出来るようで、家具にぶつかりそうになって、慌てて引っ込めていた。
「これでいいですか?」
 柔らかく小さな指が頬にかかり、きゅっと力が入る。普通に痛い。
「・・・・・・うん、わかった。もういい」
「はぁ・・・・・・」
 何をさせられたのだろう、と困惑気味に首を傾げる彼女を見ながら、本格的に頭を抱えてしまう。精神科とか心療内科とか、かかるべきかしら。
「それで、信じてもらえましたか?」
 汚れない輝く瞳でじっと見つめられると、「いいえ」とも言い難く、迷いを込めてゆっくり頷くと、カグラちゃんは屈託のない笑顔を浮かべ、ほっとしたように大きく息を吐く。
「よかったです」
 その笑顔に免じて、とりあえずなるようになるか、と諦めて、後ろに倒れ込むように伸びをした。
 
               ○
 
「普段の癖でベランダから入ろうとしちゃって」
 未だ半信半疑とはいえ、とりあえず彼女は天使である、という前提で話を進めることにして、次に問題となるのは「なぜベランダに引っかかっていたのか」。
 百歩譲って空を飛んで移動できるとして、そもそもなぜうちがわかったのかも疑問だし・・・・・・。
「アキネさんは、境界ってご存じですか?」
「・・・・・・せかいのさかいめ?」
「ええと・・・・・・まあ、簡単に言えばそうです。詳しく説明しようとすると長くなるので、自分の今居るところと別の場所の境界線とでも思っていてください」
 寝起きの頭に難しいことを言われてもわからないし、いきなりのファンタジー展開に、正直に言えば混乱している。
 でも、これは本当にあったことで、かろうじて日記の体を成していたこの文章も、ついに小説に乗っ取られる時が来たらしい。ただ、何度もいうけれども、これは本当に私の身に起こったことをありのまま書いていて、とても信じてもらえないとは思うけれど、一応は・・・・・・日記であるということだけ、記しておこうと思う。
「そして・・・・・・正確に言えば、私の住んでいる世界とアキネさんが住んでいる世界は違うんです」
「目の前にいるのに?」
「世界が重なっている、ええと、パラレルワールドが重なっているイメージです」
「それで、ベランダに引っかかってた理由は?」
 ファンタジーで煙に巻こうとしているわけではないと思うのだけど、長くなるようなら先に顔を洗いたい。そもそも、目の前の天使と名乗る美少女相手に寝起きのすっぴんを見せ続けるのは、なんというか・・・・・・いろいろと負けた気持ちになるので、嫌だ。
「せっかちな人ですね・・・・・・簡単に言ってしまえば、私たちの世界で起こることでも、こっちの世界で起こるはずのないことは、世界の法則が修正してしまうんです。例えば、天使が空を飛んで部屋に飛び込んでくる、なんてこっちの世界じゃ起こるはずないですよね?」
 現に起こっているじゃない、という言葉を飲み込んで、大きく頷く。もし起こったとすれば、それは目に見える妄想か死に際のお迎えのどちらかだろう。
「だから、本当は見えない壁ではじかれるはずでした。なのに、なぜか中途半端に受け入れられてしまった」
「それでベランダの柵に半身だけ引っかかってたわけね」
 理解はできるが納得はできない、そんな感じ。ただ、目の前に天使がいる以上、反論できないのも事実で。
「とりあえず、顔を洗ってくるね」
「・・・・・・あっ、はい、ごゆっくり」
 妙にかしこまった姿勢で、挙動不審に辺りを見渡す彼女が可笑しくて、「くつろいでいて」とテレビのリモコンを渡す。下手に緊張して縮こまっていられるより、少しでも落ち着いてくれるとありがたい。彼女には聞きたいことがまだまだたくさんある。
「ありがとうございます」と礼儀正しく頭を下げて、恭しくテレビのリモコンを操作するカグラちゃん。借りてきた猫、という表現がぴったり。
 ニュースにはあまり興味がないのか、チャンネルをザッピングする音を背中に受けながら、洗面所へと向かった。
 
              ○
 
 顔を洗うと少し思考がはっきりしてきて、これは夢じゃないと実感する。夢ならどんなに良かったか、と頭を抱えながらリビングへ戻ると、楽しそうに目をキラキラさせてテレビに食い入るカグラちゃんの姿。何を見ているのかと思えば、朝からスイーツ特集をしているらしい。
 天使といえども女の子。こないだのカフェでもケーキに釘付けだったし、どうやらスイーツには目がないみたい。

 夢中でテレビを見るカグラちゃんを横目に、熱いコーヒーを淹れて頭を起こすことにする。彼女も飲むかしら?
 ミギは専ら紅茶派だったせいで、中々減らないコーヒーの粉を――お気に入りの喫茶店で挽いてもらっている、ペーパーフィルターに落として、ヤカンからお湯を注いでいく。拘るなら細口のポットを、と聞いたことはあるけれど、私のこだわりは中途半端で、市販のペーパードリップのコーヒーじゃ満足しないけど、かといって道具一式こだわるわけでもなく、なんとも半端なコーヒーライフとなっている。
 軽く蒸らしてから再びお湯を注いでいくと、香ばしいコーヒーの香りがキッチンを満たして、やっと頭が働き始める。やはり淹れ立ての香りは心地よく、気分をリラックスさせてくれる。
 久しぶりに二人分のカップに――本当はミギとペアカップだった赤色のマグと来客用の黄色のマグ、お湯を注いで温めた後、お湯を捨ててコーヒーを注いでいく。
 漆黒のような深い色と紫紺のような水面の色。まるでミギの瞳の色みたい、とそんなことを考えながら、こぼさないように気をつけて、マグをもって部屋に戻る。
 カグラちゃんはやはり私の見ていた幻覚ではなかったようで、相変わらず楽しそうに情報番組を見ながら、英語のお勉強をしていた。

「パンダって可愛いですよね」
「でもその子、着ぐるみだよ」
「知ってますけど・・・・・・この着ぐるみの子も可愛いですよね!」
「・・・・・・そうかな?」
 くだらない会話をしながら彼女の前にコーヒーを置いて、自分も一口啜る。口当たりのいい熱さと香りが、半強制的に目を覚ましてくれるから目覚めの一杯は好き。

「・・・・・・あのぉ」
 そのままぼんやりテレビを眺めてコーヒーを楽しんでいると、申し訳なさそうなカグラちゃんの声。マグを傾けながらそちらの方をチラリと見ると、上目遣いで何か頼み込むように、私の方を見る彼女の姿。
「できれば、砂糖とミルクをいただけたらうれしいのですが・・・・・・」
「・・・・・・あぁ、ごめんね、気が利かなくて」
 普段、私はブラック派で、ミギが気まぐれで飲む時もそのままなので、うちではほとんど砂糖とミルクの出番がない。
決して彼女に意地悪をしようとか、そんな意図はなくて。ううん、私は誰に向かって言い訳してるんだろ。
 すっと立ち上がってキッチンへと向かう。確かに、彼女くらいの年齢の時は、ブラックコーヒーは強敵だったな、と懐かしい気持ちになった。
「すいません、ありがとうございます」
 背中越しにまた彼女が頭を下げている気配を感じる。いきなり家に押しかけてくる図太さの割には、妙に可愛げがあるというか、なんというか。

 クリーム色の強いブロンドの髪と薄い灰色の目。紺色の制服から除く足は細く、肌は雪のように白い。ただ、冷たさというよりは、醸し出す柔らかな雰囲気から春の陽気のような温かみを感じられ、受ける印象は非常に明るい。寒い冬の日、抱きしめて寝たら気持ちよさそう。
 邪な邪念が漏れ出ていたのか、砂糖と牛乳を持って部屋に戻ると、訝しげな視線で見られたけど、気にせず彼女の前に二つをおいて、もう一度コーヒーブレイクに戻ることにする。
 いつの間にかテレビは番組が変わっていて、カピパラの温泉特集が始まっていた。カピパラたちも温泉の良さがわかるのか、どこかリラックスした表情でお湯に浸かっている。

「カピパラって可愛いですよね」
 今度はそれを否定することもなく、肯定の意を込めて軽く頷く。それを見たカグラちゃんはうれしそうに顔をほころばせ、たっぷりミルクと砂糖を入れたコーヒーを飲んだ。
「甘くないの、それ」
「苦いの、苦手なので」
 じゃあなんでコーヒーを飲んでるのよ。確か喫茶店でもコーヒーを頼んでいて、だからこそ彼女もコーヒーを飲むものだと勝手に解釈していた。
「もっとホロさんと近づきたくて」
 どうやら考えていることが顔に出ていたようで、少しだけはにかみながらカグラちゃんが答えてくれる。どうやら彼女は「恋する乙女」みたい。
「でも!最近は角砂糖3つで飲めるようになったんですよ!」
 ふふん、とない胸を張る彼女に、どう答えていいか逡巡しながら「そうなんだ・・・・・・」と当たり障りのない言葉を返して、それでも少しだけうらやましいな、と思う。
 好きな人のために好きな人の好きなものを好きになろうと努力する。だいぶ昔に失った熱意のようなものが垣間見えた気がして。
 ミギのことをもっと理解しようとしていれば。こんなことにはならなかったのかな、と胸の奥に痛みを覚えた。
 
               ○
 
「それで、お話の続きを――」
「いいよ、多分聞いてもわからないと思うし」
「ええ・・・・・・」
 灰色の目を細め、心底呆れた表情を浮かべるカグラちゃん。ただ、いきなり目覚めからホラーとファンタジーの世界に放り込まれた私の心境もどうにか推し量って欲しい。

「アキネさんとミギさんの事にも関わるんです」

 もう待っていられない、とでも言うかのように、硬い声でカグラちゃんが続ける。その言葉の意味を一つ一つ噛みしめて、彼女の華奢な体に掴みかからんとする勢いで飛びつく。
 振動でテーブルからマグが倒れて、黒いシミがカーペットに広がっていく。そんなことも気づかないまま、彼女の肩を手で抱いて「詳しく教えて」と懇願した。
 恐怖の色が色濃く映る彼女の瞳は、ふるふると揺れていて、申し訳ない気持ちが胸いっぱいに広がる。それでも、このチャンスを逃したら、本当にミギがどこまでも遠くに行ってしまう気がして。
「・・・・・・アキネさん、痛いです」
 気づかぬうちに手に力がこもっていたらしい。なるべく刺激しないように、ということか、そう告げるカグラちゃんの声は落ち着いていて、それでも隠しきれない震えが繊細な音をブレさせている。
 慌てて手を離すと、痛みを堪えるかのように彼女は自分の体を自分で抱いて、「ごめんなさい、急に・・・・・・」と小さく頭を下げた。
「・・・・・・こちらこそ、ごめん」
 いくら焦っていたとはいえ、少女相手になんてザマだろう。自分で自分が嫌になる。手の跡が残らなければいいけど。
「・・・・・・アキネさんは悪くありません。急にこんなこと言われたら、パニックになるのが当たり前ですよね」
 どう考えても悪いのは私の方で、今こうして文章を書いていても自己嫌悪で悲しくなってくる。被害者に謝られてしまえば、加害者にはどうすることもできなくて、せめて声を荒げて怒って欲しかった、というのはどう考えてもこちらのエゴで。
「だから・・・・・・どうか、落ち着いて聞いて下さい」
 じっと淡い灰色の瞳が私を見つめてくる。揺れの収まった彼女の瞳は強い意志に満ち足りていて、見つめ返しているだけで催眠にかけられているかの如く、心のざわめきが落ち着いてくるのを感じた。
 
「私は貴女とミギさんを救いたいんです」
 
そういって彼女は強い決意を込めた目で、私を見つめた。
 色素の薄い灰色の瞳が、急に色濃く、嵐の前の空のように暗く煌めいて見えた。
               ○
 
 少し、また昔の話をしようと思う。あまりにも――我ながら非現実的な話ばかりで、混乱しているから。
 改めて日記として書き記していくと、そっちが小説で今私が書いている過去の記憶・・・・・・だいぶ脚色して小説に作り直しているとはいえ、が嘘みたいに見える。もしかして「ミギ」なんてヒトは元からいなくて、すべては私がみていた幻覚なのではないか、そんな考えすら頭の片隅くらいには思い浮かべてしまう。
 それならば彼女の存在とともに広くなった部屋についても、辻褄を合わせるかのように他の人たちに植え付けられた偽の記憶――例えば「美希さんは海外に長期旅行にいった」とか「夢だったが諦めていたアーティストになるために修行の旅に出た」とか、こうして考えてみるとあまりにも適当に作られた理由にも説明がつく。
 でも。この手に触れた柔らかな肌の暖かさは。するりと指を通した栗色の長い髪は。あの雨の日、唇に感じたしっとりと柔らかなあの感触は。
 嘘じゃない。確かにこの目に、深い闇色の瞳が焼き付いている。
 飲み込まれてしまいそうだと思ったあの深い色。忘れるはずもない、夜の闇を溶かしたような漆黒と瞬く星のような輝き。
 深淵から見つめ返してくる引力は抗えないほど強く、引きずり込まれるように――そういえばあの日もそうだった。二回目のキスと、初めてミギを怖れた日。

 これからの事を語るためにも、まずはあの日の回想を書き連ねていこうと思う。
 
               ○
 
 あの日も確か雨だった。雨の日や雪の日はどこか街の様子も落ち着いていて、足早に帰路を急ぐ人々を横目にミギを連れ立って帰宅する。
 確か、その年のとある本の賞について――私はあまのじゃくな性格なので、絶対に1位を受賞した本は読まない、なんなら好きな作家さんが毎回「とりあえずビールで」みたいな感覚でノミネートされている事に腹を立ててさえいるけど、私よりずっと読書が好きなミギは何作かノミネート作について読み込んだようで、書店員の私にとってありがたい情報をいくつもくれた。

 そういえばミギは読書が好きだった。どんな本でも器用に――本というのはジャンルによって「読み方」みたいなものがあるような気がして、例えば小説とエッセイでは読み進める「感覚」が違う、専門書とコミックでは「読み方」が・・・・・・それは絵と文字の違い、とかじゃなくて、うまくは言えないけれど、読み手の感覚みたいなモノが違うのではないか、というのが私の持論。簡単に言えば、「求めているものが違う」かな。
 だからこそ、「読み方」を間違えてしまうと、本当に欲しかった情報が見つからなかったり、せっかくの料理にドバドバと調味料をかけすぎてしまったりした時のような、本そのものを汚してしまったかのような嫌な感触が残って、それがとても苦手だ。

 と、こんなところで持論を語り続けても仕方がないのでこのくらいにしておくけれど、とにかくミギはどんな本でも楽しく読める人だった。
 小説を読めば知らない世界に想いを馳せ、専門書を読めば知らなかった知識にしきりに感心する。コミックは子供のように興奮し、図鑑なんかはとても興味深そうに眺めていた。
 なんとなく、この部屋の元の形を思い出してきた。ミギが来てからは本棚がいくつも増設されて――それは図書館にあるようなベーシックな本棚だったり、革新的な積み上げるタイプの本棚だったり、スライド式のものだったり、とにかく彼女の持ち物には本が多かった。
 部屋が広く感じるのはそのせいかもしれない。あれだけ高く積まれていた本の事を今まで忘れていたというのも変な話だけど、それほどショックが大きかったのだと思う。

 そういえば、帰る途中に私の職場、もちろん書店によって、何か本を買った気がする。ミギと連れだってお店を冷やかしにきた私に、お店のスタッフたちはうらやましそうに――彼女たちはもちろん仕事中だったから、ヤジを飛ばしながら、「お久しぶりです!」とミギに群がってくる。
 ミギはこのお店でも人気者で、彼女が惜しまれながら職場を離れるとき、寄せ書きのページいっぱいにメッセージが書かれていたのを思い出す。もちろん、その中には私の言葉もあって、せっかく追いかけてきたのに!という恨み言と可愛がってもらったことに対する感謝を記入した気がする。
 いや、彼女は私が就活のためにバイトをやめた期間に退職していて、ちょうど入れ替わりになるように、晴れて社員となってしまった私が入社してきたはず。
 となると、私が彼女の寄せ書きにメッセージを残しているのは不自然で、たぶん先の台詞は実際にお酒の席でミギに愚痴ったのだろう。寄せ書きは・・・・・・どこかのタイミングで見せてもらったっけな。
 人の記憶は曖昧で、時にそれは美化しすぎたり、他の思い出と混ざったりして、綺麗に彩られてしまう。ただ、それ故に辛いとき縋ることができるのだと思う。
 こんな形ではあるけど、思い出を書き連ねていく中で思い出すこともあれば、忘れたいこともある。
 それは楽しいこともあれば、悲しいこと、つらいこともあって、それでも過ぎ去った過去は確かにそこにあって。

 この記憶をすべて忘れて、まっさらに一から生きなおす、というのは・・・・・・なんというか、すごく寂しい事なのかもしれない。
 
 脳裏にカグラちゃんの言葉がリフレインする。
 濃い灰色の瞳がじっと私を見つめて、告げる。その言葉はとても信じられないような内容で、それでも彼女の真剣な様子から嘘を吐いているようにはとても見えなくて、真剣な普段に比べ少し低い彼女の声だけが、部屋の中に広がっていく。流れているはずのテレビの音、外を走る車の音、日常のそんな些細な音楽ですら消え去ってしまったかのように、まるで世界に私と彼女の二人しかいなくなってしまったかのように。

「私とミギを救いたい」

 その言葉の意味をひたすらに考えながら、今もキーボードを叩いている。天使である彼女の「救う」という言葉。これが意味するものはどういうことなのか、少しだけ背筋に冷たいものを感じながら、声のトーンに破滅的なものを感じなかったことだけが救いか。
 そこに続く話はさらに受け入れがたくて、整理するのに少し時間をくれるよう伝えた。この話を書き終わったら、落ち着くためにも文章化してみようと思う。
 
              ○
 
 降り続いていた雨はいつしか雪に変わって、お目当ての本を買って「また遊びにきてくださいね」とスタッフの黄色い声を背中に受けながら、店の外に出る。
「モテモテだね」と軽口を叩くと、「当たり前でしょ」と誇らしげにミギは笑って、「可愛くないヒト」と唇を研がさせると「お互い様でしょ」とまた楽しそうに笑う。

「すっかり冬だね」
 白い息を吐きながら、呟く。今年の初雪は早く、これからクリスマスシーズンだと言うのに先が思いやられる。
書店の、というより小売業はどこでもそうだと思うけれど、後2週間もすればクリスマス商戦が始まって、ラッピング地獄と売り場の飾り付けと、それが終われば年末年始の準備。しばらくミギに会える時間はなさそうね、と小さくため息を吐いて、雪の降る夜空に視線を向ける。
 雲が多いのか月は見えず、ふわふわと大粒の雪だけが降っている。この時期にこれだけ大きな雪の結晶が見られるのは珍しく、ほとんどはみぞれやあられだ。
 白い息を吐きながら「アキの家にはこたつ、あったっけ?」とのんきな事を聞いてくるミギに「ないけど」と返すと、信じられないといった表情で私を見て「信じられないな」と一言。
「表情だけで伝わるのに」
「それくらい、信じられないってコト」
「こたつがない冬なんて」と大げさにぼやくミギを軽く無視しながら、帰路を急ぐ。雪だとはしゃぐ歳はとうに過ぎて、これが積もったら明日大変だなぁ、なんて夢のないことを考えている。
 去年の冬は豪雪で、身長の低い後輩ちゃんが肩まで埋もれてしまう程度には――除雪車が積み上げたせいではあるのだけど、雪が積もった。つまり去年はそれだけ厳しい冬で、隣でまだぼやいているミギが言うようにこたつがあればもう少しマシな冬を過ごせたのかも知れない。
 うちにはストーブもないので、暖房一本で過ごしていたのだけれど、あまりに寒いのでうちの中で毛布をかぶって暮らしていた。着る毛布、というのがあるのを最近知ったので、今度試してみようと思う。

「――ということで、今度一緒にこたつを買いに行こう」
「・・・・・・勝手に話を進めないでよね」
 いつの間にかミギの中ではうちにもこたつは必要、ということで私との話がついていたらしく、勝手に結論が出てしまったので、慌てて反論をする。一緒に見に行くくらいならいいけど、本当に購入するかは、実物を見てから決めたいと思う。
「あはは」と悪びれずに笑って、「勢いでいけると思ったんだけどな」なんて零す彼女に当てつけで、もう一度大きくため息を吐いて「少しでもボーナスが出たらね」と追撃を重ねる。彼女も以前うちの会社で働いていた人間だ、内部事情はよく知っているはずだ。
「・・・・・・ぐぅ」
 ぐうの音も出ない、という言葉は聞いたことがあるけど、本当にぐうの音を出す人間がいるとは聞いたことがなくて、少し可笑しくなる。くすくすと声を殺して笑うと、つられるように彼女も声を出して小さく笑った。
「それでもこたつは必需品だよ、アキ」
「はいはい、考えておきます」
 まるで夫婦みたいな掛け合いをしながら、雪の積もり始めたアスファルトの道を二人で歩く。そのときは、ずっとこんなくだらない日々が続くと思っていた。
 
              ○
 
 習慣とは不思議なもので、ミギをシャワールームに投げ込んだ後、そんなに飲みたいわけでもないのに冷蔵庫の中からレモンサワーを取り出し、プルタブを開けていた。なんとなく、ミギが来るときはお酒を片手に、そんな雰囲気があって、前回と違うのはお酒の種類くらいか。
 お風呂から上がって来るとき、部屋が寒いと文句が十は出るので暖房で部屋を暖めて、帰り道での会話を思い返してみる。確かに、こたつかストーブくらいは会った方がいいかもしれない。
 最近は地球温暖化などと言われているけれど、そんなこと関係なしに雪国の冬は恐ろしく寒く、暖房一つで乗り切るのは確かに厳しい。
 変に意地を張って体調を崩すより、ここで暮らすならミギの言うとおり一通りの暖房器具は必要かもしれない。

「こたつねぇ・・・・・・」
 お酒が入ると独り言が増える。独り言は寂しさを加速させるだけなので、ミギが来るとき以外はあまり家でお酒を飲まないようにしている。
 行儀が悪いと思いつつ缶からそのままもう一口飲んで、ドアの奥から聞こえてくるシャワーの音に耳をすませる。自分以外の生活音が聞こえてくるのは、なんか言葉に出来ないけど、同棲感があって気分がいい。
「ミギのためにも買っちゃおうかな」
 それでミギがもっとうちに来てくれるなら、そんな打算混じりで。
「好きかも、かぁ」
 久しぶりにお酒が回り過ぎているかもしれない。もやがかかったかのように働かない頭で、ふとあの日のことを思い出す。
 キスなんて別に特別なことじゃないけれど、付き合ってもいない人、しかも同性にしたのは初めてだった。しかもいきなり告白のようなことをして、ミギが軽く流してくれなかったら、今頃どうなっていたんだろう?
「あー・・・・・・」
 ゾンビみたいにうめき声を上げて、ぐいっとサワーの缶を傾ける。こんな夜はお酒で思考を溶かしてしまうのがいい。だって、考えても考えても、きっと答えは出ないから。
「好き、ってなんだよぉ」
 今になって強烈な自己嫌悪に襲われる。なんというか、私はミギに対して、とても卑怯なことをしてしまったのではないかしら。
「はぁ」
 思わずため息が零れる。悪い飲み方がネガティブを加速させていく。
 気を紛らわすためにテレビをつけるもたいした番組はやっていなくて、チャンネルをコロコロ変えながら、画面を眺めた。

「どうしたんだい、悩める子羊君」
 気づけば結構な時間が経っていたらしく、相変わらずバスタオル姿のミギがそばにたっていて、どこかの名探偵よろしくポーズを決めながら、のぞき込むように私を見ている。
「最低限の」
「はいはい、わかってるって」
 お手上げですとでも言うかのように両手を挙げて、へにょりとした柔らかい笑みを浮かべる彼女。半端に緩んだ口元が可愛らしい。
「また飲んでるの」
「んー・・・・・・」
 あなたに言われたくないわ、とでも返してやろうかと思ったけれど、言葉にすることすらめんどくさくて、鳴き声で返事を返す。自分で思っている以上に酔いが回っているらしく、動くことさえままならない。
「ねえミギ」
「どしたの、お嬢様」
 へろへろな私をからかって、蠱惑的な笑みを浮かべる彼女。ああ、まただ。また、私は。
「もう一回、キスしてみていい?」
 突然、強い力が覆い被さるように両肩にかかって、押し倒されるように床へと倒れ込む。迫る影が私を上から押さえつけていて、あっと言うまもなく唇をふせがれる。
 永遠にも思える一瞬の後、赤い唇を指で拭って「本気にしちゃうよ?」と私を見下ろすミギの目は、獣の如く光っていて、その鋭さに恐怖を感じた。
 深い穴を見下ろした時の、衝動的に落ちていきそうな感覚と重力から解放さたような浮遊感、それが彼女の目をのぞき込んだ感覚で、そんな目にじっと見つめられると、まるで理性を溶かす猛毒のよう。
 その瞳には不安と期待をぐちゃぐちゃに混ぜたような表情を浮かべた自分の顔が映っていて、恥ずかしさで耳まで真っ赤になっているのを感じる。心臓が早鐘を打つ。痛いくらいに鼓動を感じる。ああ、悩める子羊は狼を前にしては震えて怯えることしかできない。
 女性とは思えない力強さで押さえつけられた体は、一ミリも動かせそうになく、彼女の体重がかかるお腹が苦しい。息をするのも苦しくて、助けを求めるように彼女を見上げれば、それが彼女をさらに興奮させてしまったようで。

「アキが始めたんだから」
 まるですべての原因は私にあるかのようにそう断言して、私の服の中に手を滑り込ませてくる。彼女の細い指がお腹をなぞって、くすぐったい。
精一杯の抵抗として、私は一言だけ――まさか自分がそんな台詞を吐くことになるとは思ってもいなかった、答える。
「せめてシャワーを浴びさせて・・・・・・」
「だめ」
 その後のことは・・・・・・もちろん、書くつもりはない。
 
             ○
 
 時を戻そう。確か、そんな決め台詞のお笑い芸人がいた気がする。とにかく、カグラちゃんの話に戻ろうと思う、これ以上ミギとの思い出を続けたら、恥ずかしさで筆を折ることになる。
「ええと・・・・・・いきなりそんなこと言われても困りますよね」
 私があまりにも困惑した顔をしていたからだろう、カグラちゃんは眉根を下げて困ったように俯きながら、自嘲気味に呟く。
「いつもホロに説明下手って怒られるんですよね」
 少しの間の後「あっホロさんに、です」と慌てた様子で付け足して、顔を紅潮させながらパタパタと手を振る。どうやら彼女は説明下手でせっかちなタイプらしい。
「ええと」
 悩む素振りで次の言葉を探しているのか、また部屋の中を沈黙が貫く。テレビから流れてくる脳天気な声が今は恨めしい。
「もしかするとなんですけど」
 一言一言言葉を選ぶように、緊張した面持ちでカグラちゃんは私の目をじっと見つめて話し続ける。彼女の瞳は今や煌々と輝きを増していて、薄く墨を溶かした空の色に月の光が落ちているかのよう。幻想的で、深い夜に導きをもたらしてくれるような輝きか。
「アキネさんは境界を越えて、こちらの世界に入門している可能性があります」
「・・・・・・入門?」
 世界に入門、といわれると、某吸血鬼のことを思い出してしまう。私にも、不思議な能力がある、ということ?
「そう考えれば私が半分だけ入り込めたことにも理由が・・・・・・」
 と、さっきまで軽快なトークを繰り広げていたコメンテーターの言葉に徐々にノイズが混ざり始める。まぶしいくらいだったはずの日差しはどこかに消え去ってしまったかのように、窓の外は暗く、太陽光任せで電気をつけていない部屋は薄暗く、まるでホラー映画のように不穏な空気が辺りを支配する。
「・・・・・・これは」
 何か知っているのかと縋るようにカグラちゃんを見れば、今にも泣きそうな顔して彼女も私に助けを求めていて、とりあえず近づいて手を握ってやると、少しだけ安心したように小さく息を吐いた。
 そんなことをしているうちにテレビのノイズはいよいよ激しくなり、もはや彼女が何を喋っているのかさえわからないほどに――画面さえもおかしく、古いテレビの放送終了後の画面のような、不安感を誘う映像が流れている。
「怖いです」
 抱きつくようにその身を寄せてくるカグラちゃんの体を抱いて、テレビの音に耳を澄ませる。なにか、ノイズに混ざって聞こえる気がする。
 バンッと激しくガラスを叩く音、音のした窓の方を見た瞬間「それ以上知ってはいけない」と低く地の底から響くような男の声がして、ぱっと画面が元に戻る。
 窓からは朝の日差しが入り込み、相変わらず明るいアナウンサーの声が部屋の中に響く。
 腕の中でぶるぶる震えるカグラちゃんの存在だけが、さっきの怪現象を物語っていて、聞き覚えのない誰かの声だけが頭の中でリフレインする。

「それ以上知ってはいけない」

 何を、といえば、きっともう一つの世界のことで。まるで彼女の言う「世界の法則」が無理矢理知ることを止めに来たような、そんな体験。
私たちの世界の人々が知るはずのないことを、カグラちゃんは話そうとしていたわけで、それを修正するために先の現象が起きたのだとすれば、もしあのまま話を続けていたら・・・・・・どうなっていたのだろう?
「うぇぇん」
 元に戻った部屋の中、か細い泣き声で現実に呼び戻される。妙に胸元が温かいと思えば、私の腕の中でカグラちゃんが大泣きしていて、涙が生地に染みこんできているらしい。
 人間不思議なもので、目の前で泣いている人がいると逆に自分は冷静になれる。恐怖で震えていた体の揺れもいつしか治まって、今は彼女を慰めてあげないと、と使命感に突き動かされている。
 言葉に出来ない感情をひたすらに吐き出す彼女の背中をさすってあげながら、どうしたものかしら、と妙に静まりかえった頭で考えた。
 
               ○
 
「すいません、取り乱しました・・・・・・」
 涙で腫れた目とかすれた涙声でカグラちゃんがぺこりと頭を下げて謝る。目の前のホットミルクにも口をつけようとしないので、よほど自分の行いを恥じているらしい。
「とにかく、落ち着いたならよかった」
 私自身も彼女が居てくれたからこそ、こうして落ち着けている部分があって、一人であんな事に巻き込まれていれば、今頃ベットの中で布団にくるまってブルブルと震えていただろう。
 それにミギの失踪は普通の――例えば、私に愛想尽かして出て行ったとか、事件や事故で帰れなくなっている、とか、そういう・・・・・・現実を突きつけられるような理由ではなくて、どちらかと言えば超常現象的な、ぼんやりとした幻想の中に居続けられるような理由でよかった、そんなことを考えてしまう。
 現実は辛い。もう会えない、という辛い事実を突きつけられてしまうから。幻想の中であれば、どこかにいるかもしれない、という甘い希望を持ち続けることができるから。

「ホットミルク、飲むでしょ?少し、落ち着こう?」
 優しく、語りかけるように意識して彼女に一息吐くことを勧める。こんな錯乱した状態で帰すわけにはいかないし、何より私がまだ一人になりたくない。
「・・・・・・ありがとうございます」
 もう一度頭を下げて、カグラちゃんはカップを傾け、一口ミルクを啜る。甘党の彼女に合わせて角砂糖を二つ淹れたので、かなり甘いと思うけど、温かさと甘さで張っていた気がほぐれたのか、大きく息を吐いて、彼女は目を閉じる。
「落ち着きますね」
「よかった」
 テレビを消した部屋の中は二人が喋らないとしんとして静かで、時々窓の外から車の排気音や子供の騒ぐ声が聞こえてくるばかり。
 手持ち無沙汰にきつねの大きなぬいぐるみ、きつねと言っても丸っこい大福みたいなものだ、を抱き寄せ、顔を埋める。年下の手前お姉さんぶって気丈に振る舞っているとはいえ、私の受けたショックもかなり大きく、本当は今にも泣き出したいくらい。どちらにせよ、今の不安な表情は彼女に見せたくない。
 せっかく持ち直してきたのに、頼りになるお姉さんが不安そうな顔をしていたら、せっかくあがってきた気持ちもまた落ちてしまうと思うから。
 少しだけ休んだ後、明るい顔を作って顔を上げると、カグラちゃんも手持ち無沙汰に手遊びをしていて、私の視線に気づくと恥ずかしげに頬をかいている。
 ちょっとした動作や表情がきゅんとくるほど可愛いらしく、さすがは天使ねと変なところで感心してしまう。
「もう大丈夫です」
 彼女はえへへ、と気恥ずかしそうに笑って、穏やかな表情を浮かべる。気持ちも持ち直したらしく、体の小刻みな震えも止まっていた。

「びっくりしましたね」
「ホントに」
 びっくりした、で済ませていいようなものではない気もするけれど、かといって気にしたところでどうすることもできなくて。
彼女の言う通り「びっくりした」「驚いた」そんな言葉で片付けてしまった方がいいのかもしれない。
「それで話の続きなんですけど」
 灰色の瞳が頼りなさげに左右に揺れる。月の輝きのように深く色づいていた瞳の色は、元の色素の薄い灰色に戻っており、その変化が一層彼女の緊張を表していた。
「こうなってしまうとさすがにできませんよね」
 提案ではなく肯定を求める彼女の言い方に頷いて「もちろん」と言葉を返す。無理矢理続けようとして、先より恐ろしい事態に陥ったら、私たちにはどうしようもない。

「とにかく!」
 仕切り直しとでも言うかのように、パンと音を立てて手を叩き、カグラちゃんがまっすぐ私を見つめてくる。その目にはもう迷いはなく、左右に揺れていた瞳も素直に私を映している。
「どうにか方法を考えます!ホロ・・・・・・さんにも相談して――」
 ホロさんに対して敬称が抜けがちなのは、言わされているからではなく、普段そう言い慣れているから、に聞こえて、二人の関係がさらに気になってしまう。私もミギのことを「美希」と呼ばなければいけない場面で、時々「キ」を濁らせてしまうことがあるから、尚更。
 それから二言、三言これからの事について話し合って、「落ち着くまでここにいていいよ」と――本当は私が彼女に行って欲しくなくて、もう少し話し相手が欲しかっただけ、彼女の好意に甘えてしまう。
 彼女自身も一人になるのが怖い気持ちが残っていたのか「それでは、お言葉に甘えて」と姿勢を崩し、ぽつりぽつりと他愛もない話を続ける。
 かといって、共通の話題があるわけでもなく、話の内容はミギの話だったり、ホロさんの話だったり、お互いの関係者の話が中心となり、それでも女性が二人、話は尽きることなく、気がつけば朝の情報バラエティが終わる時間になっていた。
 本当はカグラちゃん自身の事ももっと知りたかったけれど、どこに地雷が――世界が待ったをかけるポイント、が眠っているかわからなくて、彼女のことは当たり障りのないことしか聞けなかった。
 例えば、近くの高校に通っていること。甘いものが好きだけど、太りにくいタイプではないので、ホロさんによく止められていること。友達のミューちゃん――漢字で美優雨と書くらしい、最近の子だなぁ、って思う、は食べても全然太らないタイプで、先輩のリイさん――こっちは漢字が難しくて、言葉で説明されてもわからなかった、とよく羨ましがっていること。そんな女子高生の日常くらいかな。
 ただ、そうやって聞いていけばいくほど、彼女自身は仏の高校生と変わらないような生活をしていて、それだけに「天使」という肩書きが不思議に思える。
 かといって、彼女が天使そのものだと信じられる理由は見せてもらったとおりで、大がかりな奇術か何かを仕込んでいたわけじゃなければ、説明のつかない事ばかり。
 そんなドッキリをお店で会ったばかりの私に仕掛ける理由もなくて、怪奇現象も合わせて考えると、やはりこれは逃れようのない現実なのだと思う。

「――ではそろそろ」
 彼女が来て何か状況が変わったわけでもなく、むしろミギ失踪の謎は更に深まる一方。それでも、なぜか一歩進めたような達成感があって。
「すいません急に押しかけてしまって」
 言葉通り「急に押しかけて」なのは確かだし、またベランダから飛んで帰るものだと思っていたら、帰りは玄関から帰るらしい。そういえば、確かに最初に玄関にそっと靴を並べていたことを思い出す。ショート丈の可愛らしいブーツだ。
「ねえ、カグラちゃん」
「はい?」
 ブーツを履きながら振り返る彼女の表情は澄んでおり、さっきまで笑ったり、泣いたり、怯えてみたり、感情をあちこち揺り動かしていたとは思えないほどに、まっさらだ。薄い灰色の瞳は初雪のように清らかで、彼女の視線が動くと水面のようにそこに映りこんだ私が揺れた。
「・・・・・・ううん、なんでもない、ありがとね」
 突然の訪問に、夢のような話。恐怖体験と青春の話。短い時間の中であまりにも多くの出来事があって、朝の憂鬱はいつの間にか吹き飛んでいて。
カグラちゃんが現れなければ、あの夢に飲まれて沈み込んだまま動けなくなっていただろう。
 夢に打ち砕かれた私の心は、不思議な天使との交流でいつしか形を取り戻していて、本当に優しい天使みたいね、と小さく笑みがこぼれる。
「また、ホロさんのお店に来て下さいね!」
 バイバイと大きく手を振って、玄関から出て行くカグラちゃん。本当に奇妙な出会い方だったけど、気の置けない友人が一人増えたように心の奥が暖かくて、不思議な子、と彼女との出会いを思い出す。
 まるで天使みたいに綺麗な子、と思った私の考えは間違っていなかったようで、本当に天使だったというのはあまりにもできすぎというか。
 話してみれば普通の年頃の少女と変わらず、天使も青春するんだ、と変なところに関心してしまう。好きな人のためにコーヒーを克服しようとするところなんて、まるっきり少女漫画の世界。
 コーヒーとカグラちゃん。その二つが組み合わさって、あの日のことを考えてみる。

 記憶を失う、というのはどこまでのことを指すのだろうか。ホロさんの言い方だと、ミギに関わる記憶の全て、といった感じだったけど、そうなればホロさんやカグラちゃんの記憶も失われるだろう。二人はミギのことを知ってしまったし、もはや私とミギの物語に組み込まれているといっても過言ではない、はず。
 それに記憶を失った、という記憶があるのはおかしな話なわけで、かといって私の記憶だけからミギが消えたら・・・・・・多分、世界の法則が乱れるってことになるじゃないかな?
「わけわかんない」
 考えることを放棄して、机に腕を伸ばし突っ伏してみる。
さっき零したコーヒーの匂いと、自分のものではない誰かの香り。ミルクのような甘い香りは、多分カグラちゃんのもので、この感覚は久しぶりだなと思う。
 ミギは甘さの中に爽やかさのあるシトラス系の香水を好んでつけていて、彼女に抱かれると香るその匂いがとても好きだった。彼女自身はあまり匂いのないほうで、自然とその香水の香りが、彼女自身の香りとして私の中にすり込まれていった。
「おんなじにおい」
 そんなことだったから、我が家にお泊まりする時は髪から私と同じシャンプーの香りがして、くんくんと鼻を鳴らしながら嗅ぐ彼女の姿があった。シャンプーにもコンディショナーにもこだわりがないくせに、染めているとは思えないほどに彼女髪は引っかかりも毛玉もなく、綺麗だった。
「いい匂いだね」
「おんなじなんでしょ?」
「ううん、アキの匂いも混ざっているから」
「・・・・・・恥ずかしいから」
 そうだ、彼女は平気でそういうことを言う人だった。なんでもないでしょ、とでも言う顔で甘い言葉を吐くものだから、いつも私が恥ずかしくなって、彼女の顔が見られなくなる。反撃とばかりに同じ事を仕返してみたら「そうなんだ、うれしい」と妙に乙女ぶるものだから、つい笑ってしまって、お返しとばかりにじゃれついてくすぐられた。
「楽しかったな」
 こうして浅い眠りにつく前のまどろみの中でも、思い出すのはミギのことばかりで、夜になれば彼女との幸せな夢を願って、眠りにつく日々。
暖房の効いた部屋は暖かく、動き出す気力もないままそのままの体勢でいると、まぶたが段々重くなってきて、沈み込むように短い夢の中に落ちていく。

 どこか知らない街の部屋の中、カグラちゃんが水色の髪をした――雪に空色を混ぜたような薄い色、女性と楽しそうにおしゃべりをしている夢を見た。細い赤いフレームの眼鏡がよく似合っていて、彼女の才女感を際立たせている。
 私はもう一人の誰かの視点を通じてその光景を見ているようで、場の空気の暖かさから三人の仲の良さが伝わってくる。
 ああ、いいなと思った瞬間、水色の髪をした彼女がこちらを向いて、一瞬目が合った、そんな感覚がした。
 優しいまなざしだ。まるで年下の恋人を慈しむような、柔らかい表情。自分本位なミギとは大違い、そのはずなのに。
「・・・・・・ミギ?」
 確かな彼女の片鱗を感じて、戸惑いが生まれる。
 そんなはずはなくて、でもどこかよく似ていて、奇妙なデジャウを感じたまま、意識はそのまま闇の中へ沈んでいく。
 目が覚めたらもう昼過ぎで、開きっぱなしのカーテンから、この季節にしては珍しいまぶしい日差しが入り込んでいた。
 
              ○
 
 もはや語るべきこともない、といえば嘘になる。でも、これ以上ミギとの思い出を書き記したとして、記憶から彼女が消えてしまえば、この文章はただの恋愛小説となり、遠い未来のどこかで見つけて、懐かしさに読み返すか、その拙さに顔を赤くするか、どちらにせよ「ただの文章」に成り下がってしまう。
 だから・・・・・・というのも変な話だけど、この話が「特別なもの」であるうちに、誰かに読んで欲しいなと思った。
 これでも物書きの端くれ、自信はないけどプライドはある。この物語の終わりがどんなものになろうと、どこかの誰かを救うものであって欲しいと、そう願った。

 残念ながらこれから遅番の仕事、今日はもう続きを書く時間はないだろう。いつまでも彼らの好意に甘えているわけにはいかないし、そろそろこの物語にも決着をつけるべきかもしれない。
 あまりにも非現実的で、「記憶を食べる」なんてあまりに非現実的な約束。それでもなぜだか私には確信があって、きっとホロさんはあの場所で私を待ってくれている。
 これを小説という形で公開していいのかはわからないけど、誰にも「書くな」とは止められなかったし、多分問題があるなら世界の法則が修正してくるはず。
 ただ、そんな曖昧なものでせっかく書いたものがかき消されるのはあまりにも癪で、せめてもの抵抗に「これはフィクションです」と最初のページに注意書きを入れることにした。後は野となれ山となれ、よ。
 タイトルは――そうね、「星蒔き乙女と灰色天使」
 ミギの話に出てきた想像の種族と、実際に私の目の前に現れた異世界の存在。幻と現実が入り乱れる、この物語にふさわしい題名。
 
 それでも、確かにみんなここにいた。

               ☆




これはフィクションです。

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