狂花舞姫

狂花舞姫

夢をみて  時をみて
過去をみて  現在をみて
全てを失くした  カラッポの僕が
それでも覚えていることがあるんだ


「綺麗だねぇ」
そう言って、浅く溜め息をつく。
まだ大人になりきれない、少女が一人。
黒く真っ直ぐな髪が肩口で揺れる。
覗く、白い首。標準よりも、小柄で。
長い睫毛のついた瞳をぱちぱちとさせて、もう一度。
「綺麗だねぇ」
桜色の花びらが、舞い踊る。

「スゴイでしょ? 来て、良かったね」
彼女は言った。次いで、微笑む。
その表情と、付随する声。
彼は、それが好きだった。
それはとても柔らかな音で。それはとても穏やかな波で。
緩やかに包みこまれる、温かな感覚。
「……でも、寒ぃ」
彼は少女の隣で、白い息を吐き出した。
季節は冬。それも、真っ只中の二月。しかも真夜中。
何故、そんなときに外に出ているのか。
「だって珍しいじゃない。それに、とっても綺麗」
彼女は続けた。
「見たかったんだもん」
キミと、これをね。
目前にある季節外れの桜の梢を指差して、彼に顔を向ける。
彼女は自分の手……特に、指先を気に入っていた。
けしてスリムな体型とはいえないけれど、そこは自分でも綺麗だと思えたからだった。
桜の花と同じ、柔らかなピンク色の形の良い爪。
白い指先がすらりと梢に向かって伸びている。
その道筋を遡るように……彼女の爪先から顔に向けて、彼は視線を移して行った。
何となく。そうすることが、自然と思ったから。
別に彼女が自分の指先を気に入っているなんて、知る由もなかったけれど。
ようやく彼の視線が自分の顔に到達したことを見てとって、彼女は再び笑った。
「遅ぉーい。こっち見るの」
目を合わせたまま、腕が下ろされる。
そのままの状態が、しばし続いた。
風に花びらが舞う。視界に映るモノは。
真冬の、夜桜。彼女の表情。
黒い髪も、この冷たい風に舞う。
綺麗すぎる、異様な光景。
何から口に出せば良いのか分からなかった……少なくとも、彼には。
だから、この場所に来る前から思っていたコトを聞いてみようか。そう思った。
「あのさぁ……」
「何で、でしょ?」
分かってるんなら、言えよ。
声にしてみる。
彼女がまた、笑った。
桜色の花びらが、舞い踊る。

「私にも、よく分かんないんだけどさ……」
それじゃ、僕はタダの付き添いかよ?
ワザとらしく、不満気な声を出してみた。
丁寧に、顔までも演技してみる。
「うーん……」
あ、困ってる。
微笑に似た、苦笑。
本当は全然不満じゃないのに。
少し意地悪な自分を自覚しながらも、表情は変えない。
もうちょっとだけ、桜よりも。
自分に意識を向けていて欲しかった。
「とにかく。見たかったの」
桜色の花びらが、舞い踊る。


「桜、見に行かない?」
そう言われたのは、今日の昼のこと。
……何で今、桜?
彼はそう思った。今は真冬である。桜など、咲いているはずはない。
「ね、桜」
なおも言い募る彼女の必死の表情をちらりと見て、彼は首を傾げた。
真面目な話をするときの顔だった。それが分からない程、馬鹿じゃない。
「……桜……?」
「そ。桜」
「今は咲いてないだろ」
「ふっふー。それが、咲いてるんだよね」
だから、何で!?
素直に口に出していたらしい。自分では気が付かなかったのだが。
いつものように、目の前で笑う。その原因は、自分の一言。
それがいつものように、くすぐったくて嬉しい。
この時間が好きなんだ。
決して言えそうにないことだったけれど。

その桜の木は、意外にもすぐ近くにあった。
しかしもう、そこは親しみを覚えられるような場所ではなく。
彼女の家から徒歩五分……護る者のいない、荒れた神社。
小さい頃は優しい神主がいて、遊びに来た自分達を温かく迎えてくれたのだが。
その神主も、もういない。
亡くなってから十年も経たないけれど、誰もいない神社に遊びに行く気も起こらなくて。
そのまま、そこは遊び場所ではなくなった。
だからその場所のことは、記憶の底に沈んで。
久し振りに引っ張り出したから?
頭の奥が鈍く痛んだ。
「あの神社に、桜なんかあったっけ」
神社で遊んだ記憶の中に、春の景色はないような気がする。
いや、あるのかもしれないけれど、桜の花が舞う景色には見覚えがなかった。
「うぅん…咲いてなかったよ。……私達が、遊んでた頃には」
「じゃ、何で今」
「わかんない。いつの間にか」
適当だなぁ……。気付いたんなら、教えろよ。
花見にちょうどいいじゃんか。
思わずまた呟いていた。
彼女がまた、笑う。
彼の好きな、声で。

「ほら、咲いてる……」
彼女の言葉は本当だった。
満開の桜。はらはらと散り、舞う花びら。
冷たい宵闇の中、花の色だけがぼんやりと浮かぶ。
綺麗だった。それくらいしか、言葉が浮かばない。
本当に綺麗なモノには、形容詞など要らないのだろう。
だって自分の頭の中に、今の情景を表現する言葉なんて見つからない。
「嘘じゃなかったでしょ?」
してやったり。
そんな表情の彼女が、得意気に胸を張る。
息が、真っ白で。
「去年もね、こうやって、この時季に咲いてた」
「ふぅん……」
「何でだろうって思ったんだけど……結局詳しくは分かんなくて。調べてはみたんだけどね」
「調べた?」
「うん。あっ、別に本とか読んだんじゃなくて、近所のおばあちゃんとかに聞いてみた。何か知ってそうじゃない? そういう人って」
あー、まぁね。
少し頷いて見せる。
「…それで、何か分かった?」
「取り敢えず、色々。教えてもらっちゃった」
桜色の花びらが、舞い踊る。


「昔は、普通に咲いていたらしいの」
彼女はそう切り出した。
手袋を嵌めずに冷えた両手が少し痛んで、無意識に両手の指を組んでいた。
……二人とも。
「此処じゃない、何処かで? って聞いたら、此処でだって。毎年春に……今みたいに、綺麗な花を咲かせていたって。なのに、いつの間にか花が少なくなっていって、ある年には全く花がつかなくなったらしいの。もう、寿命だったのね。桜の木の」
「そんときは、ちゃんと春に咲いてたんだな」
「うん」
「それで? 何で今は咲いてんだよ。思いっ切り健康みたいだけど……この桜」
「えっと……」
彼女は少し、言い淀んだ。どう言えばいいのか、分からないといった素振りで。
それでも語り出した小さなその物語は、不思議に包まれていた。自分が多分存在している、この真実味のない現実よりも余程魅力的に思えた。
「神主さんがまだ、神主さんじゃなかった頃にね。婚約までした恋人がいたんだって。この桜が満開の……あ、もちろんそのときは春ね? 満開のときに、結婚の約束をね、この木の下でしてたらしいの。なのにその恋人が、ある年の冬に突然亡くなってしまったんだって」
「何か、ベタベタな話だなぁ」
「もう、茶化さないでよ! ……とにかく。恋人が亡くなってしまって……当然、神主さんは悲しむわよね? それで、ずっと泣いて泣いて、ある決心をしたらしいの」
「……?」
「自分が跡目を継ぐこの神社のこの桜の下に、彼女のお骨を収めようって」
「はぁ……」
この話が本当だとすると、今自分たちが立っている土の下に、彼女が眠っていることになる。
体感温度がほんの少し下がったような気がしたけれど、気にしないフリをした。
強がり。
「それでね、実際に彼女はこの下で眠っているんだって。この、桜の木を墓標として。神主さんは埋葬してからも、しばらくは日毎夜毎にここへ来て、涙を落としていた」
成る程ね。それで?
彼は何も言わなかったけれど、深く頷くことで彼女の言葉を促した。
「そしたらね。何年か経って、どうしてかは分からないけど……春になる前の、今くらい……二月の半ばに。神主さんが桜の梢を見上げたら、違和感を覚えたって。ほんの少し……ほんの少しだけど、もう枯れてる枝の蕾が膨らんでいるような気がしたって。変だなぁと思いながらそのままにしてたらその三日後に」
「……咲いてたの?」
うん。
彼女は先刻の彼みたいに、深く深く頷いた。
「それからなんだって。この桜が、こんなふうに真冬に咲くようになったのは」
「でも……おかしくないか? 僕たちが遊んでたときは、冬になったって咲かなかったじゃんか」
「ん。それを言われると、困るんだけどなぁ。……きっと、私達が騒いでたから、神主さんも少しだけ、寂しさを忘れられてたんじゃないかなぁ。それで桜の下の彼女は、今なら自分が慰めなくても大丈夫って思ったとか」
やがて神主さんが亡くなり、彼女にとって慰めたい人はいなくなった。
そして、それに続くように子供達もここを離れた。彼女が咲く理由など、何も無くなってしまったのだ。
少女の夢想に、彼は妙に納得した。

……でもそれって、かなリ寂しくないか?

……だったら、今、彼女が咲いているのは何故なんだ?

神妙な面持ちになった彼の顔を、彼女は小首を傾げて覗き込んだ。
我に返った彼は、彼女の顔が目の前にあることにひたすらびっくりして。
「うわっ」
「何よー、急に黙り込んで……」
「いや、何となく……」
彼女が笑った。
あぁ、何だか久し振りかも。
彼は毎日この声を聞いているはずなのに、何故だか不意にそう思った。
どうして。
「じゃあ、どうして今咲いてんだ……とか、考えてた?」
図星。
「な、何で分かんだよ」
「顔に書いてあるんだもん」
「ねぇよ!」
彼女の顔つきが、先程までの真面目な表情に戻った。
「もしかしたら……何か、教えてくれてるのかもしれない。この桜を見る人たちに」
「……え?」
「だからぁ」
一旦そこで、言葉を区切った。彼女が息を吸う音が、いやに鮮明に耳へと届いた。

「別れは突然やってくるから……大事な人に、言いたいことは、きちんと言っておくべきよ……って。彼女は、教えてくれてるのかもしれない」

それって……当て付け、か……?
彼はまずそう思ったけれど、いつの間にか桜の幹に近付いていた彼女を見て言うのをやめた。
彼女がゆっくりと、桜の幹に両の腕を回す。
彼のところからは、桜の幹を両腕いっぱいに抱いた彼女を、桜の花びらが包み込むように舞っているのが見えた。
綺麗だった。
他に言える言葉など見つからない。
彼は、唐突に恐怖を感じた。
彼女がそのまま、綺麗なこの風景に溶け込んで……いなく、なってしまうのではという錯覚。
そう。花びらとともに、行ってしまうのではないかと。

……逝って、しまうのではないかと。

それでも彼の全身は痺れたように動かなかった。唇さえも。
そんな彼の目の前で。
桜色の花びらが、舞い踊る。


「……。帰ろっか」
「へっ?」
彼は再び素っ頓狂な声を上げた。
瞬きの度に瞼の裏に甦る、先程の光景から逃れられない。
そのせいで、彼女が桜の幹から離れ、自分の元へと戻っていることに気付かなかったのだ。
「なぁに、その間の抜けた顔」
彼女はまた、その口に手をあててくすくすと笑った。
そうして、彼に手を伸ばす。
「帰ろっ」
「……うん」
彼は、彼女の手を取った。

あぁ。
桜の下に眠る、人よ。
どうかどうか僕達に。
別れだけは、与えないで。


「――――!」
彼はベッドの上で目を覚ました。
寝汗をびっしょりとかいていた。別に暑くもないのに。
白いシーツを蹴飛ばして、ひらひらと手で顔を扇ぐ。
妙に胸騒ぎがした。命を紡ぎ自分を生かすモノが、やたらと早鐘を打っている。
それにしても、妙な夢を見ていた。
自分には何も残っていない。
それなのに、こんな……こんな、夢を見るなんて。
感情という名のモノが、自分の中にも在ったのか。
彼には信じられなかった。
胸の辺りが締めつけられて、くすぐったくて、でも気持ちが良くて、笑みが零れて、止まらなくなるのだ。

切ない? 愛しい? 大切な?

覚えている限りの感情表現を搾り出す。

苦しい? 辛い? 悲しい?

あぁ、これじゃないな。
彼はそう思った。直感だった。

暖かい? 柔らかい? 穏やかな?

うん、こんな感じ。

冷たい? 暗い? もどかしい?

こんなのも、あった気がするけど。

綺麗? 怖い?

………………。

これ、かな…………。
夢の中、綺麗なモノに恐怖した。
それが物だったのか、者だったのか。
思い出せなかった。だが、それでも別に構わなかった。
どうせ自分の中にはもう、何も残っていないのだから。
『家族』と言って会いに来た人。
『友達』と言って会いに来た人。
『先輩』。『後輩』。『先生』。『親戚』。
誰も、自分の中には存在しなかったのだ。
それでも。
自分が今見たこの夢に、彼女はふわりと現れた。
……彼女?
何も残ってないんじゃ、なかったっけ……?
彼は久し振りに、狼狽した。
自分の中に、唯一残っていたモノを見つけて。
者を、見つけて。

きっと、彼女が、自分の中で。
一番、大切な、存在だったんだ。

彼はそう思った。同時に、部屋を飛び出していた。
全てを無くしてしまってから、やっと見つけた探したい『者』。
その人を、見つけようと思った。
彼女は、きっと待っているから。
彼女は、きっと舞っているから。
理由も根拠もない自信がふつふつと湧いてきて、彼はどうしようもなく走り出したのだ。
彼が出て行った真っ白な部屋からは、乾いた薬の匂いがする。
部屋のドアには漢数字が書いてあった。真っ黒な文字。三〇八。


あの桜の梢の下、彼女は確かに誘われていた。
眠る『彼女』に、誘われていた。
『彼女』は誰かを慰めたかった。
誰でも良かった。何でも良かった。
だから、別れの道へと導いたのだ――彼女を。
自分が味わった悲しみを、誰か他の生きる者にも味わわせたかった。
長い月日が流れ、かつて愛した人の心の中で自分が昇華されてゆくのに耐えられなかった。
そして歪んだ。捻じ曲がった愛情の発露。

――慰メテ、アゲタイ――

あの桜の下に立ってから。
三日後、彼女は急逝した。
原因は不明。
自然で、不自然な、死。
彼が全てを無くしたのは、それからすぐ後のことだった。

彼は彼女を見つけられたのか。
それはきっと、別の誰かが物語る。


狂花舞姫 終
再掲元:個人サイト(閉鎖済)2001/07/21

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