はじまりのうた_凪人

はじまりのうた。Side. 凪人

蝉、うるさいな……。
そう思いながら歩いていた。
まだ夏季休暇に入ってはいないけれど、連日の暑さに負けた教授達は、ほとんどの講義を終わらせるか休講にしてしまっていた。
そんな中、今日も元気だ夏バテ知らずの教授約一名は、この猛暑にもめげず何故か唯一クーラーのない教室で講義をして下さっている。
そして現在、俺はその講義を中抜けしてキャンパス内をうろついている。理由なんて立派なモノはない。単なる気分。
これも、理由になるのだろうか。
ふらふらと教室を出て、やたらときしむドアを閉め、カツカツと靴音を立てて廊下をすり抜け、太陽が惜し気もなく光を放つ真昼の戸外に滑り出た。
やっぱり、暑いな。
そんな思考を心に浮かべてから、瞬時に馬鹿だと思う。
そんなことは分かりきっていた。
こうも暑いと、講義を抜けてきた意味がないような気がしないでもない。

よぅ、お前もか?

嬉しそうな声が聞こえた気がした。
それは、過去に自分が出した声ではない。
自分の声にはこんなに感情など詰まっていない。
そんなことは自分が一番、よく知っている。
それなら誰だ。
……アイツか。
身体中から感情をほとばしらせて、こんな夏の晴れた日に会いでもしたら余計に暑苦しくなりそうな奴。
けれど、確かにそれだけではないと俺に感じさせる奇妙な奴。
変な人間のことを思い出したもんだな……そう思った。
ついでだ。あの場所に、行ってみようか。
少なくとも此処よりは涼しいだろう。
……アイツも。
来るだろうか。それとも、来ているだろうか。
いたらいたで、うるさいだけなのだけれど。

あの場所は、秘密の場所。
唯一無二の、大事な場所。
とはいえ、誰が来たって気にはしないのだから……多分、その場所が存在さえしていれば良いのだと思う。
まだ気付いた人間もいない。自分と、あの男以外は。
この大学のキャンパス内で最も大きい校舎、一号館の裏手に其処はある。
あまり見えないから工事業者が手を抜いたのだろう、適当に積み上げられたのがありありと分かるコンクリートのブロック塀だけが、その場所とキャンパスを隔てる壁。
しかもそれは部分的に崩れていたから――俺と、もう一人の人間がいつも通っているからなのだが――楽に乗り越えられる。
小規模な壁を超えて、傾斜のある小規模な草原に降り立つと、絵本や物語に出てきそうな風景が目の前に広がっている。
柔らかい草花に覆われた土手。坂を完全に下ったところからは川原が続き、更に澄んだ水の流れる小川がある。
こんな日には、その冷たい水に触れたら気持ちが良いだろう。家の水道の蛇口から出てくる、中途半端に生温い水とは違って。
自然なモノ。
俺とは違って。
……やっぱり馬鹿か。俺は。
思考回路を強制的に切断して、目の前の光景に瞳の焦点を移した。
そうして俺の目が捉えたモノは、大の字に、伸びきって眠りこんでいるアイツだった。

馬鹿みたいに安心しきって夢の中にいるコイツを見たら、何だか気が抜けてしまう。
真上から、太陽の光を遮るようにして覗き込むと、周りの静けさの所為でコイツの寝息だけが浮き上がって耳につく。
よく日に焼けた肌、色を抜き過ぎた感のある茶髪。
伏せられた長い睫毛、よく見れば彫りが深めの顔立ち。
不細工じゃあ、なかったんだな。
心外にもそんなことを思った。
逞しい体型にはよく似合う、思いっきり夏を意識した服装。サンダル。
鼻でもつまんでやろうかと思ったけれど、あまりにも気持ち良さそうに眠りこけているからやめた。


いつだっただろう。
此処を、見つけたのは。
やたらと昔のように感じる。下手をすると――子供の頃からぐらいのように。
俺が此処を見つける方が早かったのか、コイツが此処を見つける方が早かったのか。多分どっちでもないんだろう。ほぼ同時期。
俺が先に来て本を読んでいると、後からコイツが壁を飛び越えて走り込んで来た。
俺が後に壁を越えて来た場合、コイツは既に寝そべって今日のように寝息を立てていた。
そして、いつも必ずこう言うのだ。

よぅ、お前もか?

いつも。こう言うのだ。
大抵講義をサボってコイツは此処に来ていたし、俺は休講のときや講義のない時間に此処に来ていた。
だから、必ずこう答えた。

馬鹿か?

いつも。こう答えた。
お前と一緒にするな、と。
今日だけは、どうやら違うみたいだけれど。

それにしても、こんなところで安心しきって寝るか? 普通。
そっとコイツの目の前に、手をかざしてみる。影が瞼の上に落ちた。
瞬間、睫毛が震える。光を失うことで感じる、生物の本能的な恐怖か。
手をかざすのをやめ、今度は先程のように上から覗き込んだ。
俺の頭の形に落ちる影。それはすっぽりとコイツの顔を覆って。
ぱちり。二対の瞼が開く。
がばり。思い切り飛び起きるのを見た。勢い良過ぎだ。
久し振りに、笑みが腹から顔へと昇ってきたけれど押し殺した。
「間抜けヅラ」
そう言ってやると、ようやく俺の姿を認識したらしい。
「うぉ!」
……やっぱり間抜けか。第一、驚き過ぎだ。
再び地面とお友達になったコイツの隣に、少し離れて座る。
「……何、やってんだ……」
視線を背中に感じながらも、気にせずに読みかけの本を鞄の中から探り出す。どうせコイツがいるときには、ロクに読めもしないのだけれど。
人が活字を追っていると分かっているのかいないのか、一方的に話しかけてくるから。
そんな風に思うのに、それを嫌だと感じない自分の方が可笑しいか。
普段こういう類の騒々しい人間とは一緒にいないから、珍しいだけかもしれない。
きっとコイツにとってもそうなのだろう。俺という存在は。
けれども、よくは分からない。分からないが。
同じ空気を吸っている奴だと感じた。
同じ空気を吐いている奴だと感じた。
たとえ近付いても、決して奥まで入り込まない。
無意識に俺が築いている、壁の外側に立っている。時には寄りかかったりしても、どんなに喋りまくっていても、壁の内側を覗こうとしない。
そして、同じように自分の本当の内側に入り込ませることもしない。そういう印象を受けた。
もしかしたら、やはり何も考えていないだけかもしれないけれど。
コイツのことで知っていることは、名前だけ。何度も会ったことがあるというのに。
ナミヒト。
それだけだ。それだけで、良いと思う。


「……ぶはぁっっ!」
……?
ナミヒトが、人の背後で突然笑い出した。
何だ……。暑さでイカレたか……。
振り返ると、ナギヒトは俺の顔を凝視しながらも腹を抱えて笑い転げている。
「うるさい」
イカレたわけではなさそうだ。つまらん。
「はぁ……」
笑いを治めようと呼吸を整えるのが聞こえてくる。
途端、背後に――至近距離に、気配を感じた。
恐らく、俺の本を覗き込んでいるのだろう。無視をするにはウザ過ぎた。
「……何」
俺の言葉にいちいちびくっと反応するのが感じられる。帰って来たのは、苦し紛れの会話の端切れ。
「い……いや、この暑いのに、よく本なんか読む気になれるなぁー」
「別に。関係ないだろ」
「おっ俺とかさ! 文学部だけどそんなん読めね……って、え?」
……文学部……?
似合わない。
俺はまじまじとナミヒトの顔を見つめてしまった。
似合わないな、本当に。
何となく、理系の人間かと勝手に思っていたのだ。
確かにキャンパス内で会うことは一度もなかった。文理が違うなら……会わないに、決まっている。
あまりにじっと見ていたのだろう。ナミヒトの顔に困惑の表情が浮かんだ。
「…………何?」
疑問に思うのも尤もなことだろう。先程は俺が言った言葉。俺はふいと視線を逸らした。
「文学部だとは、思わなかったな」
素直に感想を口に出したら、今度はナミヒトの顔が驚いたような表情に変わる。
「へ? あぁ……ね。そ?」
それから妙に嬉しそうに笑う。
くるくる表情が変わる奴だな。これは、言わなかった。
「あぁ。それは文学部の顔じゃない」
「酷ぇっ。どんなんだよ、文学部の顔って……あ、アンタみたいなのか」
「……? 俺は文学部じゃない」
「んぁ? 違うの?」
「工学部」
今度は俺に、凝視される番が回ってきてしまった。
「はぁぁ……工学部ねぇー」
じぃぃぃぃ。
音が出そうなくらい、視線が身体へと刺さってくる。
居心地が悪い。かといって、振り払って此処を後にするわけにもいかない気がして。
仕方がないから、見られるままに見せておいた。面倒。
ぱたんと音を立てて文庫本を閉じた。どうせ、今読んだとしても内容など頭に入らないのだから。
いつもかけている眼鏡を一旦外し、裸の瞳で水彩のように滲む景色を眺めた。
「あれ? もう本読まねーの?」
近くから間抜けな声が聞こえて、すぐにかけ直した。再び銀色の影が俺の顔を縁取る。
「お前がいたら読めるか」
ふっと浮かんだ言葉が唇からするりと零れた。
途端。
「ますます酷ぇ」
裏腹に、嬉しそうな声色で言う。
他意のない笑いは久し振りに向けられた気がして、俺の表情も少しだけ緩んだかもしれない。

頭の上で青と白が溶け合う。
全ては昇華されて空へ。混ざる。


「えっと……な、何で、工学部?」
やはり文庫本を閉じたのは失敗だったか、と思う。
しかし、こうなることはあらかじめ分かっていた……はずで。
分かることと、実際そうなることとは違う。改めてそう思った。
気付かれないように浅く、溜め息をつき。
「……どうでもいいだろ」
心からそう思う。だが、ナミヒトにとっては違ったらしい。表情が曇った。
それでも自分のことを話すのは面倒くさかったから、関心を逸らすためにも振ってみた。
話を。
「じゃあ……お前は何で、文学部なんだよ」
……この俺が。
イカレたのは俺の方か。
自分から話しかけてきたくせに、俺が口を開くとやはりナミヒトは大きめの瞳をさらに丸くさせた。そして先刻と同じように、嬉しそうに答える。
だけどそれは、ごくあっさりとした理由だった。
「えっと……理系に行きたく、なかったからかな」
……そんだけかよ……。
ついた溜め息は相当に大きかったらしい。ナミヒトが隣で小さく慌て出すのが視界に入った。
人間にはそれぞれ個人の理由みたいなものがある。そう思っている。
別にこの答えがあっさりとした――悪く言えば単純とでもいおうか――モノだったとしても、俺にその理由をとやかく言う権利はないし、そのつもりもない。その理由もない。
溜め息を誤魔化すように、反応を返してやった。
「ふぅん……」


『貴方は私達と同じくらい』
『いや、もっともっと上だって目指せるんだぞ』
聞き飽きた。
『貴方はこれだけで、やっていけるのだから』
『そうだぞ。無駄な時間を割くことなどない』
何を、無駄だというのですか。
『お父様が、ピアニストで』
『お母様が、バイオリニスト』
……俺にとって。
『貴方は純粋な』
『音楽の血を流す子なんだよ』
そんなモノ、価値がないんです。
いりません要りませんイリマセン俺には必要ないんです、俺という一人の人間にとってはそんな血など。
ただ、音楽と譜面と音符と楽器とこの声だけでいい。血など関係ない。
小さい頃は。確かに、両親の期待に応えるような子供だったと思う。
母と同じバイオリンと。
父と同じピアノ。
楽器を操るのは楽しかった。練習すればするほど上手になるのが自分でも分かったし、誉められることも嬉しかった。
両親は、俺が音楽さえしていれば良いようだった。
だから俺は幼稚園にも行っていない。
小学校に行っても、俺の興味は楽器にしか向くことはなかった。勉強も運動もやろうと思えば出来たから、集団行動が少しくらい出来なくても誰からも怒られなかった。
そんなある日、初めての音楽の授業で。
俺は新しい楽器を見つけたのだ。
新しい楽器、それは自分自身。
腹から喉へ。突き抜ける空気が振動して、声になる。それは音。それは歌。
楽器が奏でる音と同じくらい、美しく響く音。
歌だけは、たくさんの他人と一緒でも楽しいと思った。もちろん、自分一人で歌うのも楽しかったけれど。
『僕は』
しばらくして。
『歌が、好き』
両親に言ってみた。
バイオリンを奏でる母と、ピアノを奏でる父ならば分かってくれると。そう思っていた。
だけど。
『歌?』
『お前は、楽器を奏でていればいいんだよ』
……分かっては、もらえなかった。
それから中学高校と進む中で、家では楽器を奏でる、音楽の血を流す子の演技を続けた。
そして誰もいないところで、歌い続けていた。
誰かに見られたら、どこから気付かれるか分からなかったから、ずっと一人で。……独りで。
高校最後の音楽の授業で、一度だけ。他の奴らの前で、歌ったことがあった。
一人ずつ、前に立って課題曲を歌うというお決まりの発表というヤツだ。俺の歌が最後で。
授業が終わった後、すっと俺の前にやってきて、こう言ったヤツがいた。
『ほんとのナギヒトが、聴こえた気がしたよ』
何だコイツと思ったけれど、本心では嬉しかった。認められたと感じた。単純なことに。
だけど、ソイツは大学受験の直前になって突然、死んだ。
遠くへ。知らないところへ、逝った。
俺の歌声もソイツと一緒に、土の下深く深く……埋葬されてしまった。
土、とは多分、俺自身の心のこと。
誰も掘り返さない。俺も、掘り返せない。そんな気はさらさらない。
両親は自分達のことで忙しく、高校の保護者面談というものにも、三者面談というものにも縁がなかった。
だから。好きにさせてもらった。
音大を受験するフリをして、音楽とは全く関係のない……しかも遠くの大学を選び、全く関係のない工学部に願書を出した。
音楽の血を流す子の演技は、もう最後だ。そう思えば、家では楽器を奏でつつも、今までにしたことのない教科を勉強することなど苦にはならなかった。
もうすぐ、此処から、抜け出せる。
もう俺の脳裏には、そのことしかなかったんだ。
初めてがむしゃらさというものを知った。そして俺は、歌を忘れた。
もしかしたら。歌を忘れるために、俺は此処へと来たのだろうか。
だとしたら、この時間は何て無為な。
それとも無為ではないのか。決めるのは、俺自身。他人ではなく。
……まだ。それは分からないけれど。


「あぁぁ……」
ナミヒトが人の隣で突然、声を上げながら背伸びをした。
何故かつられて伸び上がりそうになる。中途半端に腕を伸ばしたまま、気付く。
つられた……。思わず眉間に皺が寄る。
苦虫を噛み潰した顔というのは、きっと今の俺の顔を三倍くらい酷くしたやつだ。
「んー? 伸ばしたいんだろ? 伸ばせばぁ?」
それに気付いたナミヒトが、顔を覗き込んでくる。ウザイ奴。にやけた顔をするな。
何だかムカついたけれど、構わず伸びをした。変なことを思い出してしまったから。
不思議なことに、本気で忘れていたのだ。
歌のことも。音楽のことも。
独りでは、なかったことも。
何故。疑問符が浮かび上がっては、消える。
ちらりと傍らのナミヒトを見ると、目が合った。
だけどその視線は、俺を通り越して何処か遠く他のモノを見つめているような瞳だった。
微妙な沈黙は、その所為だったか。
コイツも。何か。探している。
根拠などない。其処にあるのは、ただ確信だけ。


「……どーでもいいけどさぁ。今度の学祭、何かする?」
いつの間にか呆けていたところへ声がかかった。
……確か、何もしない。そういえばクラスの奴らが、企画がどうとか騒いでいたけれど関係ない。
「……クラス企画があるらしい、けどな。俺はパスだ」
「やっぱりな」
そう言って笑う。悪かったなパスで。それでも付き合う気はない。
ナミヒトは、急にジーンズのポケットを漁りだした。
そこから出てきた物は、一枚の紙切れ。
くしゃくしゃに縒れていて一瞬何か分からなかったが、何かのチケットに見える。
「俺ね、これ出るの」
ナミヒトはそれをひらひらと振って見せた。
口調とは裏腹に苦笑している。声もどことなく、弱い。何故。
「目の前でひらひらさせんな、鬱陶しい」
本心から出た言葉なのだが、言った途端に目の前の顔が一段と困った表情に変わった気がした。
それでもにへっと笑って寝転がる。
結局何が言いたかったんだ、コイツは。
思わず首を傾げながらも、自らの手で払った手の中にあるチケットを覗き込んだ。
ごちゃごちゃとしたデザインの中、異様に小さい白抜き文字で。

“A LIVE OF DIFFERENCE”

なかなかに意味の分からない名称のライブイベントだな。
たまにキャンパス内でやたらと暑苦しく宣伝していたのは、コイツが入っているサークルだったのか。
この大学で音楽系サークルは一つだけで、その活動はかなり目立つ。だから知っている。小規模に活動しているサークルはいくつかあるのだろうが、学祭でイベントをやる程に表立ってはいない。
気紛れに、何のパートをしているのかと聞こうと思ったけれど、ナミヒトが黙り込んでしまった所為で聞けなくなった。
チケットを握り潰されてしまったから、余計に。


……風が。
吹いて。
全て流して攫ってしまえばいい。
そう思い始めていたところに、風の音とは違う何かの音が聞こえてきた。
調子っぱずれなメロディ。……誰かの歌か。誰の。
よく聞いてみると、それは背後から聞こえてきた。つまり。
この歌声は、ナミヒトの。ライブイベントのときにでも、歌うのだろうか。
「ヘタクソ」
正直な感想を言ってみた。我ながら意地悪だと思う。だけど本音。
振り返って歌声の主を見る。自身の両腕を枕に、寝そべっている。
そいつは何故か目を丸くして俺のことを見返した。上半身を起こそうとするのが分かって、もう一度。
「……ヘタクソ」
「二度も言わなくったっていいだろ? 仮にもバンドマンだぞ俺は!」
何だそれは。意味の分からないキレ方をするな。
「だから何だよ」
ますますキレるかと思ったが、違った。へぇ、という溜め息が聞こえる。
「あー……はいはい。そですね。確かに俺の本業はギターです、ボーカルは緊急事態ですっ」
……そうだったのか。
パートを聞かなくても良くなったことは別にどうでもいい。
今の歌い方でボーカルなどと言われたら、そこのサークルの姿勢には首を傾げざるを得なかったのだが。
そう思いつつ見ていると、少しやさぐれたかに見えていたナミヒトの表情が、急に楽しそうなそれに変わった。
……? 何を考えているのか。
にやぁ、と笑みの形を取る顔を見て、嫌な予感のしない奴はまずいないだろう。
心底楽しそうに俺の顔を覗き込んでくる。
何に似ているかというと。勝利を確信した者の浮かべる笑顔に似ていた。
「んじゃっ、歌ってみろよ!」
「……は?」
一体、コイツは何を言い出すのか。
「俺の歌をヘタクソだって言ったからにはぁ、それなりの理由があるんだよな? それを、聞かせてくれよ。歌えんだろ?」
「…………」
コイツはそんなことを考えていたのか……。それはそれは楽しそうに……。
しかも歌など。
最後に歌ってから、どのくらい経っているのかもう忘れた。
ごめんだ。はっきりとそう思う。
それなのに。俺の心の中で、何かがくすぶり始めた。
もしかしたらそれはずっとずっと俺の心の中でくすぶり続けていて、機会を待っていたのではないかと思えるほど強く。
歌への。欲求を。思い出した。
何が俺に、思い出させた?
忘れてしまったことさえも、忘れていたというのに。
心の奥に仕舞い込んで。自分にも掘り返すことが出来ないくらい、深く深く。
「だんまりは、なーし。歌えねぇならしょうがないけどなっ。ま、その場合、きっちり謝ってもらうぜ」
コイツはまだこんなことを言っている。やはり楽しそうな表情を浮かべて。
その表情につられて、顔をしかめる自分がいた。
だけど心の奥でこの状況を楽しむもう一人の、自分は。
「……分かった」
「へっ?」
いや、それはこっちの台詞だ。
自分の口から出たとは到底思えない言葉に、戸惑っているのはナミヒトだけではなく。
一番戸惑っているのはこの自分自身。それ程まで、歌うことに餓えていたというのか。
「後悔、するなよ」
目を丸くして自分を見るナミヒトの顔を眺めながら、俺はこれ以上あり得ないくらい楽しそうに笑うのを自覚していた。


すぅ。
自分自身の、息を吸う音。
奏でるべきメロディを、頭の中で反芻する。
この頭の中に流れ血液に溶けて体中に行き渡らせる感覚。
それをはっきりと感じてから、目を伏せた。
今は何も映す必要などない。俺は歌うのだから。
ナミヒトが、息を飲むのを音で感じた。
今の俺にとって、全ての音は。
声を響かせるために存在する、伴奏。
音符を持って規則的に不規則的に並んで。
一緒に。
この歌を、歌おう。
声を出しながら、俺は言い様のない解放感に包まれていた。
思い出したこと。
忘れていたこと。
今となってはもうどうでもいい。俺はきっと取り戻したのだから。
たとえこれが錯覚だったとしても幻想だったとしても、感じていた。それだけは真実。
他のどんな楽器にも負けないくらいの音を。
このカラダで出せるのだと知ったのは、いつだったか。
人間の身体は。それ自身、一つの楽器となり得るのだと。
分かって欲しかった。認めて欲しかった。
今までくすぶっていたモノを――感情の、全てを込める。
きっとそれらはこの声に乗って昇華されて。
高い声は空の果てへ。
低い声は地中深く。
中間の音は真っ直ぐに海と大地の裂け目へと。
何もかもと、今隣にいるナミヒトとも、一つになっている感覚。
ほら、人間は生き物は。
一緒に、どこまでも行ける。


はぁ……。
歌い終わって我に帰り、大きく溜め息をついて横を見ると、隣でナミヒトは目を見開いたまま固まっていた。
「……終わったけど。一応」
そう声をかけて、数秒後。
ナミヒトは瞳をぱちぱちとさせ、信じられないとでもいうように俺の顔を見つめてから。
両手を挙げて、そのままに頭を下げた。
「……参りました…………」
はぁぁ、という溜め息までつけて。
俺の歌がそんなに意外だったかと思う。
専門的に音楽をやっていたなんて話したことがないから、尤もな反応ではあるけれど……大袈裟ではないだろうか。
そして、それ以上に不思議なのは自分自身のことだ。
もう歌わない、と無意識に誓っていたのではなかったのか。
専門的な音楽教育を受けていたことも、過去のこととして忘れたいのではなかったのか。
結局は音楽が、歌が好きな自分に気付いて笑いがこみ上げてきた。
それは自嘲の笑みか。それとも、本心からの喜びを表す笑みか。
我ながら不可解な。かき消すように、鼻で笑った。
「後悔するな、って言っただろ?」
「……はぁい」
言葉少なに答えたナミヒトは、落ち着こうとしているのか頭をわしゃわしゃかき混ぜている。
そんなことをしたって髪の毛がぐしゃぐしゃになるだけだと分かっているのだろうか。
本気で、コイツは。
かつてない解放感と充足感に再び溜め息が出た。
あぁ、こんなにも。
俺は閉じこもっていたのか。閉塞に溢れた世界に。自分だけの心の檻に。
刹那、自分の唇から零れ落ちた言葉に自身で驚愕した。
「歌うのは…………久し振りだ……」
この、間抜けめ。
心の中で舌打ちをした。
それでも勝手にこみ上げ浮かび上がる笑みは心からのモノで。
緊張が解けて、柔らかい気分だ。純粋に、気持ちがいい。
そんな俺の表情を、いつの間にか落ち着いてこちらを見ていたナミヒトは見逃してはくれなかったようで。
呆けていた表情の名残が残る、しかし真面目な顔をして台詞を吐いた。
「ほんとのナギヒトが、聴こえた気がしたよ」
…………今、何と、言った?
両の瞼が意に反して、思いきり開くのがわかる。
ナミヒトの瞳をじっと見つめたまま動けなくなる。
息をするのも忘れて。
苦しい。当たり前だ。でも動けない。
飢えた鯉が餌を求めるかのように、口をぱくぱくさせて入っては来ない酸素を求める。
やはり間抜けは俺らしい。
目の前の顔が驚きに固まっているのに気付いて、ようやくこの身体は呼吸を思い出す。
思いきり、息を吐いて。吸って。
人間は酸素が足りなくて苦しいのではない。
もう必要のない、二酸化炭素を吐き出せなくて苦しくなるのだ。
誰が教えてくれたのかは、忘れた。だけどこの言葉だけを覚えている。
いつから俺は、もう要らないモノを執拗に心に溜め込んでいたのか。
そう考えたらまた、可笑しくなって。
笑い出す俺を、傍らのナミヒトは不思議そうに眺めていた。


もう一度だけ深く息を吸って。吐いて。
別に故意でもなく自然に続いていた笑いを、穏やかに仕舞った。
それを待っていたかのように、ナミヒトが神妙な面持ちになる。おずおずと開かれる口元。
俺はまた、何を言うのかと少々身構えてしまった。
「あ、のさぁー」
だから何だ。そう思う間に、ナミヒトは再び先程の紙切れ――チケットを取り出し。
きちんと文字が読めるくらいにまで、ぱんぱんと皺を伸ばした。
今度は丁寧に、その指に挟んで。
俺は目の前に突き出されたそれから、目を話せなくなった。
「……一緒に、演らねぇ?」
……は?
一瞬。何を言われたのか分からなかった。
頭の中が真っ白になって、急に視界がクリアになる感覚。
チケットをじっと見つめる。それから、俺の反応を静かに待つナミヒトの顔を視線で探ると、真剣な顔が段々とばつの悪そうな表情に変わっていくのが見えて。
「…………考えてもいい」
辛うじて顔は背けたけれど、気付けば、俺の唇からは肯定の返事が零れ落ちていた。
我ながら小さな声。風にかき消されることなく、届いただろうか。


この時間も、この出会いも。
何もかもは、無為ではない。
全てが約束されたモノならば良かったけれど。
生憎そうではないから、そうではないため、きっと俺はどこまでも行ける。
忘れていたモノを。
思い出したモノを。
取り戻したモノを。
これからも、大事に抱えて行けたらいい。生けたらいい。
今ならば、全てを真っ直ぐに見つめられる気がするから。
そして今だけは。
自分だけでなく、ナミヒトという名の他人と共に在れたら。
全てが無為ではないことを、願おう。


はじまりのうた。Side. 凪人 終
再掲元:個人サイト(閉鎖済)2001/08/22

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