はじまりのうた_波人

はじまりのうた。Side. 波人

あー、あっぢぃなぁ全くよぉ。
しかも突然休講ってのはどういうことだ? んっとに。
まぁ、どうせ休講なんてねーだろとか思って掲示板をチェックしてなかった俺も俺だけど。
今は夏季休暇直前。講義はほとんど終わってっから、キャンパスにも人はまばらにしかいない。
そんな中、補講があると思って慌てて来たっつーのに、見事に休講だった。「補講」の意味。
暑い。暑い暑い。暑い暑い暑い暑い…………。
っていうか、こんな真っ昼間に思いきり日向歩いてる奴なんて俺しかいねぇよ……。

馬鹿か?

頭の内側から、そんな声さえ聞こえてくる気がする。
その声は俺の声じゃなかった。
その声は、だけど確かに聞き覚えのある声。
……アイツの声だ。
いつでも涼しげな声しやがって、ぽつぽつとしか話さねぇ変な奴。
大抵騒がしい奴らと一緒の俺が、ほとんど接したことがない部類の人間。
それでも奇妙なことに、居心地の悪さだとかを俺は感じたことがない。
そうだ、こんなときには。
思い出したついでというわけじゃないけど……あの場所に行くか。
暑いけど、いい風が吹いてきてきっと気持ち良くなれる。
……アイツは。
来るかな。
それとももう、来てるかな。
別に、関係ねーけどさ。


ここは秘密の場所。
秘密の場所っつっても、別に自分から秘密にしてるわけじゃない。
ただ、誰も気付かないだけ。
ただ、誰も気にしないだけ。
キャンパスで一番でっかい一号館の裏手、適当に積み上げたんだなってはっきり分かる、コンクリブロック塀を乗り越えたところにそこはある。
今時珍しいくらいに綺麗な水が流れる小川があって、お約束のように砂利やら大小の石ころやらが転がる川原があって。
そして両側の土手では、緑の草花が揺れてる。天然の絨毯みたいに。
いつも通りにブロックを乗り越えて、傾斜のある小さな草原に降り立つ。
足元が柔らかい。土と草が、俺の両足を優しく支えてくれる。立たせてくれる。
サワサワと音を立てながらその草を踏み締めて歩いた。
いつもと同じ、定位置。
どうも、ここじゃないと安心して転がれねーんだよなぁ。
そんなことを思いながら、俺はばったりと大の字に寝そべった。
やっぱり、ここは、涼しい……。
目を閉じても、瞼を通して伝わってくる太陽の光が眩しい。
だけど腕で覆ってしまうには勿体ないような気がしたから、そのまま大の字を保って。
俺の意識が、どこか遠くへたゆたっていく。

目を閉じていても感じられた太陽の光が、急に陰った。
何だか無性に不安になって飛び起きるとそこには。
「間抜けヅラ」
…………アイツが、太陽の光を遮るように立っていた。
「うぉ!」
その姿に驚いて、俺は思い切り上半身を後ろへと引いてしまった。
そしてそのまま勢いに乗り、俺の身体はまた大の字へと逆戻りだ。
「……何、やってんだ……」
浅く溜め息をついて俺の隣に座るソイツが、呆れたように言葉を吐き出す。
いつもかけている銀縁の眼鏡が、太陽からの光を強く鋭く反射して俺の目を刺す。
こんな時季に、日焼けも知りませーん汗も知りませーん、と言わんばかりに綺麗な顔をした、妙に涼し気な奴。
それでも一応夏向きの格好だけはしていて、肌蹴た黒いシャツの下にひょろくはない体付きが覗く。
天然なのか寝癖なのか、はたまた努力の末に仕上げているのか……真っ黒な髪の毛が、元気にあちこち跳ねまくっている。
それでも別に変に見えることはないから、得だよなぁ。
……と、会うたび思う。
だけど。
俺が気になるのは、そんな見た目のことじゃなく。
何にも興味がなさそうな表情と、聞かれたこと以外は何も話そうとしないその性格。
まぁ聞かれたことには答えるから、別に対人恐怖症だとか人間嫌いだとか、そんな種類の人間じゃあないって分かる。
いつも携えている文庫本から、とりあえず本は好きなことも分かった。
あと、コイツについて知ってることといえば、名前ぐらいか。漢字までは分からねーけど。
ナギヒト。
それがコイツの名前。
それだけ。
それだけでもイイと思えたのは、初めてだった。
気にならないといえば嘘になるけど、別に細かいことは気にしなくてもいいと思える奴。
気にしなくてもいいってのは、いてもいなくても同じって意味じゃなくて。
空気?
みたいな?
っつーのか? よく分からん。
俺の乏しい語彙じゃ表現不可能だな、コイツは。
とにかく。
この秘密の場所を知っているのは、俺とコイツ――ナギヒトだけ、ってこと。


ナギヒトは勢いに乗って寝そべった俺の隣で、いつものように鞄から文庫本を取り出し、活字を追い始めた。
こんのクソ暑いのに、よくそんなちっこい字ぃ読む気になるよな。
俺なんて文学部だけど、ぜってー読みたくねぇ!
そんな風に思ったものの、言うのはやめた。どうせ鼻で笑われるだけだし。
細身でさほど広くはない背中をぼんやりと眺める。
大概俺はここに来ると寝っ転がってっから、本を読んでるコイツの横顔なんて今までに見たことない。
もしかして、大好きな本だから笑ってんのかぁ?
俺はいつもの無表情が崩れ、破顔したナギヒトを思い浮かべてみた。
さっぱり想像できなくて、逆に俺の腹の底からはぐんぐん笑いが昇ってきて。
………………っ。
……だめだ……!
……耐えらんねー……!
「……ぶはぁっっ!」
いきなり笑い出した俺を、ナギヒトは胡散臭そうな目つきで振り返った。
腹筋が痛い。俺を見るコイツの眉間に、段々縦皺が増えてきてる気さえする。
「うるさい」
それだけ言って、くるりと前に向き直ってしまった。
ちぇっ、つまんねーの。
だけど、笑いで軽く呼吸困難が続いているから声を出せない。
「はぁ……」
深呼吸。吸ってぇ。吐いてぇ。すぅぅー。はぁぁー。
落ち着いて息を吸えるようになってから、俺は静かに起き上がってみた。
……よ、よし。気付いてねぇ。
そうっと背中から、活字の内容を覗き込む。
案の定小さい文字がページいっぱいに広がったそれに、俺の頭は多少クラクラした。
「……何」
やべ、気付かれたし。
気配は殺したはずなのに。やっぱそう簡単にはいかねーな。ふぅ。
「い……いや、この暑いのに、よく本なんか読む気になれるなぁー」
うーん、苦しい。適当に切り出してみる。
案の定、興味ありませんという声で答えが返ってきた。
「別に。関係ないだろ」
はは……やっぱりね……。
「おっ俺とかさ! 文学部だけどそんなん読まね……って、え?」
俺が、文学部という単語を出した途端。
少し細い瞳をめいっぱい見開いて、ナギヒトは俺の顔を穴が開く程じぃっと見つめてきた。
まるで、新種の植物でも見つけた植物学者みたいだ。例えが変か。
何かそんなに変なコト言ったか? 俺。
いや、何も言ってねぇよな。うん、言ってない言ってない。何見てんだ、じゃあ。
「…………何?」
聞くと、今度はふいと視線を外した。ほんと、理解不能コイツ。
「文学部だとは思わなかったな」
「へ? あぁ……ね。そ?」
理由みたいなモンをあっさり答えてくれるとは思わなかったからちょっと驚いたけど。
こんな風に普通に会話が成り立つのは、もしかしなくても初めてじゃ……?
だっていつも、俺がかなり一方的に喋って。
ナギヒトが答えたらすぐに、終わる会話しかしてなかったよーな気がする。
そう考えたら嬉しくなった。口角が重力に逆らって上がる。
へらへらと笑っていたら、ナギヒトがまた元の胡散臭そうな目付きに戻っちまった。
「あぁ。それは文学部の顔じゃない」
「酷ぇっ。どんなんだよ、文学部の顔って……あ、アンタみたいなのか」
ナギヒトの表情に、一瞬だけクエスチョンマークが浮かんで消えた。
「……? 俺は文学部じゃない」
「んぁ? 違うの?」
「工学部」
さっき、ナギヒトが俺にしたのと同じように。
俺も、思わずコイツの顔をじぃっと見つめてしまった。
こ、工学部……?
どして? ってのが正直な感想だけどなぁ……。
感じ的に、俺ら正反対だな。何か、笑える。
「はぁぁ……工学部ねぇー」
学部が違えば、キャンパス内で会わないはずだわ。
勝手に同じ文学部だと思い込んでいたから、何だか妙だ。妙々。
取ってる講義が違うのかなぁなんて言い聞かせていたけど、それにしたって必修で一緒にならねーし、ちょっと考えりゃ分かることだよなぁ。ホント。
驚きを通り越して俺がしみじみしていると、ナギヒトはぱたん、と音を立てて読んでいた文庫本を閉じた。
「あれ? もう読まねーの?」
「お前がいたら読めるか」
ふん、と鼻で笑う。
「ますます酷ぇ」
そうは言ったものの、神経系は俺の意に反して顔の筋肉に笑顔を命令し続けていた。
その表情のままにもう一度ナギヒトの顔を見たら、コイツも少し笑ってるように見えて……やっぱり妙に、嬉しかった。
一瞬見えたナギヒトの表情はすぐに引っ込んでしまったから、目の錯覚だったのかもしれないけど、それはそれでイイやと思った。

真夏の空が瞳に映り込んで、瞳の中に真っ青なキャンバスを作る。
白い絵の具が、その上からふわりと流れて。雲だ。


「えっと」
俺は何とか話を続けようと思って、足りない頭をフル稼働させた。
だってナギヒトが本を仕舞ったってことは、ちょっとは話せる状況になったってことでそれはつまり?
こんなに考えなくちゃいけないような人間関係は、不自然。
そう片付けたって許されるんだろーけど。
でも俺は、コイツともっと、話をしてみたいんだ。
「な、何で、工学部?」
何だよソレ……。全然俺には関係ねぇし。一人、突っ込んでみたり。
「……どうでもいいだろ」
あ、やっぱ? 言われると思った。
「じゃあ……お前は何で」
え?
「文学部なんだよ」
おぉ。ちょっとは進歩? してるんだ。
馬鹿みたいだと思う。こんなことだけで嬉しいんだから。
「えっと……理系に行きたく、なかったからかな」
そう。
理系に。
もう少し言えば、医系に。
両親が敷いたレールの上を歩くなんて、真っ平だと思って。
がむしゃらに飛び出した。
遠い大学の、しかも文系の、全然関係のない学部をわざと受験した。
自分で自分のレールを敷こうと思った。……けど。
まだ、それは見つからない。
レールを敷くべき、道は見つからない。


父は看護士で。
母は腕の良い医者。
祖父母も医療関係者で、会うたんびに言われた言葉は。
『波人くんも、えらいお医者さんになるんだものねぇ』
『お父さんお母さんに負けないくらい、頑張るんだよ』
そんな環境に生まれた俺は、盲目的に医者になることを夢見ていた。
自分が医者になるのは当たり前じゃないかと。
当然なるべきなのだと。
その肩書き――職業を手に入れるのが当然、の未来だった。
周りの奴らも俺のこと、そんな目で見ていたし。
幼稚園も小学校も中学校も高校も、俺と同じような奴らばかり。
確かに、人を助けたり、救うことは立派な仕事だと思っていた。
確かに。
だけど。
友達という名の人間は、きっとたまたまだろうけど……自分のことしか考えてないような奴ばっかだったと思う。
『ヤベぇよ、偏差値下がっちまった』
『重視しなくなったとかゆって、結局まだ、それしか見られてねーよな』
『そうそう』
他人を蹴落とし。
自分が這い上がる。
頂点を。
ただ頂点を目指して。
みんなが見ていた「そこ」には、人を助けたいって気持ちなんかこれっぽっちもなかった。
あったのはただ、金や権力。影響力。
おかしいじゃないか。可笑しいよ。オカシイ。
両親は決してそんな人間ではなかった。
けれど、同じ匂いがしたような気がした。
嫌だと思った。
だから、飛び出した。
両親は何も言わなかった。きっと、何も言わなくてもどーせ帰ってくるって思ってたんだろ。
見事に帰っちゃないけどな。大学に入学して一度も。少しは、悪いと思ってる。思うだけは。
友達という名の他人達は、俺を笑った。
嘲笑った。
逃げたんだと。
アイツはこの競争に耐えられなくなって。
逃げたんだと。
『やっぱ弱かったんだよ、アイツ』
くすくす、と起こる笑い。
『あんな奴が自分の担当医だったら、青ざめるよなぁ』
『そだな。ま、良かったんじゃ? アイツにとっても。向いてなかったんだよ』
んなわけあるか。
馬鹿な奴ら。
腹の底からムカついた。
俺は人間が好きだ。話すのも助けるのも遊ぶのも一緒にいるのもいないのも。
だけど、同じ人間を金ヅルとしか見ない奴らも、やっぱり人間なんだと思うと吐き気がした。
きっと、いや絶対、そんな奴らだけが全てじゃなく。
純粋にやってる人達だっている。
そんなコト、分かってる。
綺麗なトコロを信じたいと思う自分がいる一方で、人を見るとき汚いモノを見るような目付きをした自分がいるんだ。
矛盾。
それでもいい。
俺はあいつらの言う通り、逃げ出したのかな。
本当はどうなのか、自分にさえも分かんないけど。
まだ、それは見つからない。
レールを敷くべき、道は見つからない。


たったの一秒くらいの間で、よくもこんなに考えたよなぁ。
ナギヒトが思いっきりの溜め息をついたから気付いた。
刹那の瞬間に無意識に考えていたコトは、自分の胸に今も押し込められてるわだかまり。
考えるのは苦手なクセに。
慣れないコト、やってんじゃねーよ。
何だか全て悟られたような気がして、無理矢理誤魔化そうとしてみた。
急に慌て出した俺の様子に、ナギヒトは何か気付いたのかも……しれない。
「ふぅん……」
コイツがコイツ自身を煙に巻いた……フリをしてくれた、気がした。そんな気が。
普通に考えて、するワケ、ないのに。
だけど。
どこから涌き出たのか分からない確信が、わだかまりと同じ場所――俺の胸の内には生まれたんだ。
似てる。
どこが、とはっきりとは分からないけど。
似ている。
俺と、ナギヒトは。
きっと、どこかが、似ている。
俺がぼーっとしてるうち、ナギヒトが何を考えていたのかは分かんないけど。
同じようなこと、考えてたんじゃねぇのかなぁ。なんて思う。
どことなく、遠い目をしているように見えたからさ。

「あぁぁ……」
不思議に落ち着いた気持ちになって、俺は大きく伸びをした。
それにつられたのかナギヒトも、傍らで腕を伸ばそうとする。けど途中、その動作がぴたりと止まった。
……そんなに俺につられたのが悔しいのかよ? 強情なヤツ……。
眉間に少々皺を寄せたナギヒトの顔を、意地悪かと思いながらもじぃっと覗き込んで言ってやった。
「んー? 伸ばしたいんだろ? 伸ばせばぁ?」
嫌そうな表情で睨み返してくるのが可笑しくて、ついつい笑ってしまう。
もうどうでも良くなったのか、素直にナギヒトは伸びをした。
ついて出る溜め息。
ほら、まただ。遠い目。
コイツにも、もしかしたら、探しモノがあるのかもなぁ。
仲間が欲しいワケじゃないけど。自分勝手な希望的観測。
アホらし。
知ってる。
それでも期待してしまうのはどうして。
相も変わらずコイツを見てたら、目が合った。
初めて見る、目付きだった。まるで、俺が見ていることなんて気付いていないような。
……あぁそっか。俺が見てるのは、目の前にいるナギヒトじゃ、ないんだ。
俺はコイツを通り越した、どっか違うところを見てるんだ。今。
だから、目が合ってる気がしないんだよ。きっと。
だって俺は。コイツの向こうにあるかもしれない、道を探してるから。
俺がレールを敷ける道。俺がレールを敷くべき道。
それは色んなヤツの道とレールと交わって、すれ違って、別れて、また交わるんだ。
コイツの道と、コイツが敷くレールとも、交わることがあるのかな。
ぼんやりと、そんなコトを考えていた。


「……どーでもいいけどさぁ」
ひとしきり呆けてから切り出してみた。
「今度の学祭、何かする?」
ナギヒトは静かにかぶりを振った。やっぱりね。
「……クラス企画があるらしい、けどな。俺はパスだ」
「やっぱりな」
笑っていたら睨まれた。そーんな、睨むなよなぁこんくらいで。
「俺ね、これ出るの」
ずっとポケットに入れていたから、少し縒れてしまった紙切れを取り出し目の前でひらひらと振って見せた。
俺が入ってるサークルの、学祭ライブチケット。
一応音楽やってるからな、俺。普段はギター。
だけど今回はいつもと違って、いつもはしてないパートを演奏して見せる、って企画だ。
しょーじき、俺は乗り気じゃない。
そりゃ、少しくらい遊んだっていーと思うけどさ。
でも普段から、サークルだとかバンドだとかそっちのけで遊んでんだし、もちっと真面目に出来ねぇかなぁ……なんて。
楽しけりゃいーやって奴らばっかだから、あまり大きな声では言えない。みんなオアソビだから。
俺だってプロになろうとか、そんな大それたことは考えたことないけど。
堂々と好きな楽器が出来っから、サークル様々ってトコもあるし。
それでも、やれるときぐらい真剣にやってみたい、そう思ってる。
この大学には正式な音楽系サークルが一つしかない。そんな状況じゃあ選択肢なんてなくて。この企画にのるしかなくて。
しかも何が嫌かって、ボーカルになっちまったことだよ。
人様に見せんだから、せめてボーカルくらい歌の上手さで決めろっつの!
中途半端な歌なんて、聞いてて寒気がするだけなんだからよぅ。
カラオケは、別。だって、あれに上手さは求めてねーし。楽しければイイしな。
「目の前でひらひらさせんな、鬱陶しい」
ナギヒトは嫌そうに顔をしかめた。チケットも手ごと払われる。
うーん、会話終わっちゃったなぁ。コイツが何もしないなら、聞けることもないし。
またまた困っちまったもんだから、にへっと笑って草の上に寝っ転がった。
自分で振り払っておきながら、ナギヒトが俺の手の中で風にそよぐチケットを覗き込むのが伺えた。
そのことは嬉しかったんだけど、少し意地悪な気分になって。俺はチケットをくしゃりと握り潰した。
どうせメンバーなんだから、こんなモノいくらでも手に入るし。


ふわり、と甘い匂いを連れて夏の風が吹いた。
空気を揺らして草を揺らして花を揺らして俺やナギヒトの髪を揺らして青空の雲を流した。
気持ちいいなぁ、と思った。
無意識に口ずさんだ。……歌を。
例のライブイベントで歌うハメになっちまった、あの歌。練習と本番以外で音を出すなんて、自分でも思わなかった。
適当なイントロと、適当なメロディと、適当なハーモニー。
適当な部屋で適当に練習しているときはそんなにいい歌だと思えなかったけど、今なら思える。
本当は、いい歌だって。
この風に乗って、俺の鼻歌も流れてしまえばいい。
ついでに俺さえもこのまま。
そう、思いかけた矢先。
「ヘタクソ」
涼やかな声が、予期せず折り重なった。
驚いてナギヒトの顔を見上げる。
逆光になって影。よく見えない。目を凝らす。
口角がほんのちょっぴりだけ、上がっているのが見えた。
……嘘ぉ。
目の錯覚?
上半身を起こして確認しようとしたときには、見えたと思った微笑はとっくに引っ込んでしまっていた。
「……ヘタクソ」
「二度も言わなくったっていいだろ? 仮にもバンドマンだぞ俺は!」
意味の分からないキレ方をしてみる。
「だから何だよ」
「あー……はいはい。そですね。確かに俺の本業はギターです、ボーカルは緊急事態ですっ」
そこまで口に出した後で、ふっと面白そうなコトが脳裏に浮かんだ。
ヘタクソって言ったってことは、さ。
歌えるって、コトだよなぁー?
「んじゃっ、歌ってみろよ!」
「……は?」
「俺の歌をヘタクソだって言ったからにはぁ、それなりの理由があるんだよな? それを、聞かせてくれよ。歌えんだろ?」
「…………」
「だんまりは、なーし。歌えねぇならしょうがないけどなっ。ま、その場合、きっちり謝ってもらうぜ」
思いきり、笑って見せた。それに比例して濃くなるナギヒトの嫌そうな表情。
だけど、今回は誤魔化されてやらないからな。ふん。
すげぇ楽しい気分になってるのを自覚する。変なの。でもイイや。楽しいモンは楽しいんだ。
「……分かった」
「へっ?」
「後悔、するなよ?」
ナギヒトが、今度こそはっきり笑みと分かる表情を浮かべていた。


すぅ、と息を吸う音が聞こえて。
続いて聴こえてきた歌に、俺は目を見開いたまま瞬きを忘れた。
ナギヒトの腹から喉へ。
喉から唇へ。
振動する空気とすり抜ける空気が紡ぐ、音。音。音。
半ば伏せられた睫毛の奥、濃い灰色の瞳はきっと何も映していない。歌う今には必要ない。
全ての生命力が、声に、集められ増幅され響き出す。
高い音は空に吸い込まれ溶けて融けた。
低い音は風に乗って草に交じり地に帰る。
そして中間の音はどこまでも真っ直ぐに伸びて伸びて。上昇もせず下降もせず、ただただひたすらに真っ直ぐ。
カラダ全体で声を響かせて奏でる。楽器みたいだと思った。いや、楽器だ。
きっと歌ならばたとえ何を歌わせてもこうやって。歌うんだ。
自分の歌であれ他人の歌であれ。誰のモノでも。誰のウタでも。
全てを貪欲に吸収し、喰らい自分のモノにしてウタにしていく。
ナギヒトは。
歌うために生まれてきた。
大袈裟でなく、そう思った。
自分が歩むべき道と、敷くべきレールをまだ見つけられない自分とは違う。
憧れとも尊敬とも羨みともつかぬ感情が涌き出た。けどイヤではなかった。
すごい、すごい、すごい。
キレェ。
隣からの衝撃にも似たモノ――音、に俺の存在なんかかき消されてしまいそうで。
それだけ。
この俺に他に何が言える?


「……終わったけど。一応」
コイツが本当に歌い終わってこう言われるまで、どんくらい経ってたんだろう。
「……参りました…………」
俺は溜め息をつきながら、両手を挙げて一礼までした。
ナギヒトが鼻で笑う。
「後悔するな、って言っただろ?」
「……はぁい」
あぁ、やられた。それが本音。
だって普通! こんなプロも顔負けに歌えるヤツなんて、そこらにいねーだろ!
理不尽にまたキレそうになって、呼吸を整える。落ち着け俺。
「歌うのは」
頭をわしゃわしゃとかき混ぜて自分を落ち着かせている俺を横目に、ナギヒトはぼそりと呟いた。
まるで心を裏切って、急いた言葉だけが飛び出したように見える。
「…………久し振りだ……」
また、ぼそりと。
どうして久し振りなのかは聞けなかった。
聞ける雰囲気じゃなかったし、そんなコト別に俺には関係ないし。
きっと何か、ナギヒトに歌を忘れさせる何かがあったんだろう。
そして、歌を忘れている、ということさえも忘れさせるような何かが。
多分。絶対。
隣で俺がそんなコト考えてるなんて、コイツは分かってないだろーけど。
俺だってたまにはシリアスモード入るんだよ。似合わなくても。
ようやく落ち着いたかな自分、と感じた。
ナギヒトの顔を盗み見る。
ナギヒトは。
微笑っていた。
今までの笑みとは違う、柔らかなそれ。
ナギヒトの本当をまたもや垣間見た気がして、俺は勝手に気恥ずかしくなった。
そして俺の口から、やはり突如飛び出した台詞は。
「ほんとのナギヒトが、聴こえた気がしたよ」
言葉が喉を振るわせて、空気を振るわせて音の波になって。
鼓膜を刺激して、その波は耳の中うずまき管で増幅されて、聴神経へ。
それには数秒もかからない。秒、以下の世界。
ナギヒトは俺の言葉を聞いた途端、ものすごい表情でこっちを向いた。
……な、何かそんなに気に入らないコト言ったか、また!
だけど、そうではなかったみたいだ。
いつもの眉間の皺がないし。
ただただ驚いて俺のことを凝視している。そんなカンジ。
ナギヒトは息まで詰めていたのか、苦しげに眉を寄せた。
何か言おうとして。口だけを、微妙にぱくぱくさせて。
ぱくぱく。
俺がその様子を呆然と見てると、やっと呼吸を思い出したのか静かに深く息をついた。
そして、突然笑い出す。
変な奴。やっぱり変なヤツ。
そう思ったけど、吹っ切れたように思いきり良く笑うコイツを見るのは気持ちが良かったから、そのままに眺めていた。


「あ、のさぁー」
ひとしきり笑って、いつもの様子に戻ったナギヒトを確認して俺は言った。
普段通りの無表情がこちらを向く。
笑ってるほうがカワイイかも……とは口に出したら殺られそうだし、それはやめておいて。
さっきくしゃくしゃに握り潰してしまった紙切れ――もとい、チケットをもう一度取り出す。
ぱんぱん、と破れない程度に皺を伸ばしたそれを、今度はしっかりと目の前に差し出して。
「……一緒に、演らねぇ?」
ナギヒトは俺の言葉に絶句したようだった。
まず俺の指に挟まったチケットを凝視。そして俺の顔をまじまじと凝視。
ふいと視線を背けて、俯いた。
やっぱダメかぁ。悪ぃ、と謝ろうとしたそのとき。
「…………考えてもいい」
あの歌声の主と同じ人物が出しているとは思えないくらい、小さく風に流されそうな声が耳に届いた。
まじですか?
どんな顔して言ってんだ、と思わず声の主を見る。


俺が歩んでいくだろう道と、敷くべきレール。
それは色んなヤツの道とレールと交わって、すれ違って、別れて、また交わるんだ。
コイツの道と、コイツが敷くレールとも、交わっていければいい。
そう思って一歩を始めるのも、イイかもしんない。
歩いたらそれで最後、後ろの道が消えてしまうわけではないんだから。
中には踏み出した瞬間に、消えてしまう道もあるかもしんないけど。
試行錯誤。
不器用でも寄り道でも回り道でも。
いつか見つけられれば、いい。
ただ、今は。
ナギヒトの道と、レールと。
交われ。


はじまりのうた。Side. 波人 終
再掲元:個人サイト(閉鎖済)2001/08/22

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