砂の城

砂の城

「……何してるの?」

少女が一人、何も無い虚空に向かって小さく礼をしていた。白い両手が胸の前でぎこちなく組まれている。
中学への通学路にあるここは公園だ。その砂場にいる少女の足元にはお山。トンネルを開けようとして失敗したのだろう、頂上から派手に崩れていた。
「……おいのり」
微かだが、弱くはない声が返ってきた。小柄な身体つきによく似合う、小さくて高い声。けれど体勢はそのままに、微動だにしない。
妙といえば妙な、しかし見過ごすことも出来た状況に、思わず声をかけてしまったことを半ば後悔しながらも。問いかけの主である佳菜(かな)は、公園の入り口に自転車を停めて砂場へと歩いた。
鍵を抜くのも忘れない。最近は気を抜くとすぐに盗られるのだ。ここから家まではまだかなり遠く、自転車なしで帰りたくはない。
サドルに腰掛けていた部分のスカートにはすっかり皺が寄り、アイロンをかけたばかりのプリーツに劣らないほどくっきりとした模様を形作っていた。
「あ」
「え?」
「ありんこ、ふまないでねー」
「……はいはい」
いつの間にか、ぱっちりと目を開けていた少女は——目を堅く瞑って『おいのり』していたはずなのに——両手のポーズはそのままに、視線だけで足元の蟻を示した。
言われた通り、黒く細かな蟻を踏みつけないようにしながら一歩一歩進む。少女の前に立つまでにやたらと精神力を消耗した気がして、ふぅ。と無意識に溜息をつけば、逆に問いかけられる。
「ねぇ、おねえちゃん、なんてゆーの?」
「……あぁ、私、佳菜。あなたは?」
「えっとね、ひめ、ってよんで」
「ひめ、ちゃん?」
「うぅん」
「……え」
「えっとねぇ、しらないひとになまえきかれても、いっちゃいけないんだって」
佳菜は思いきり脱力した。よく躾けてますね、『ひめ』ちゃんのお母さん。心の中で呟く。
「……で、ひめちゃんはどうして、こんなところでお祈りしてるの?」
『ひめ』は足元の山を指差して、満面の笑みを浮かべながら言った。
「これねぇ、あたしのおしろなの!」
「……そうなんだぁ」
崩れてるけど……。
危うく続けかけたその言葉を必死に飲みこんで、佳菜は無理矢理口角を上げた。こんなちっちゃい子の夢、壊しちゃいけない。
「あたし、いつか、ここにすむの。すめるように、おいのりしてるの」
「今は、住んでないの?」
「すんでないのー。かわりに、ありさんたちが、おるすばんしてくれてるの」
「ふぅん。どうして?」
「うんとね、わるいやつがね、あたしのおしろをこわしちゃうぞーって、くるの。だからね、ありさんたちがまもってくれるの」
とても手が込んだおままごとのように、佳菜には思えた。私、こんなに頭使って遊んでたっけ? 少女と同じ幼少期の自分を思い返しても、ただただ笑って転んで泥だらけになっていたことぐらいしか記憶にない。
崩壊したトンネルの部分はよく見てみれば完全に崩れているのではなく、中に空洞があった。きっとそこは『ひめ』にとっての大広間で、真紅の絨毯が敷かれた先に玉座があり、美しいシャンデリアが輝き、白くまっすぐな大理石の柱が何本も高い天井に向けてそびえ立っているのだろう。
『ひめ』の幼い瞳には何か、決意のようなものが見え隠れする。それが夕方の陽を浴びてきらきらと瞬いていた。
「……私も、住んでみたいなぁ」
佳菜がぽつりと呟いたのを、『ひめ』は聞き逃さなかった。
「じゃあ、おねえちゃんはとくべつに、あたしがごしょーたいしてあげるから!」
「えー、でも、いつか分かんないんでしょ?」
「……いつか、かえってくるもん」
自分の言葉に『ひめ』が目に見えてうなだれたので、佳菜は慌ててしまった。
「あっ、あのひめちゃん、ごめんね。私、ひめちゃん帰ってくるの、待ってるからね!」
「……うん」
「私も蟻さん達と一緒に、ひめちゃんのお城を守ってあげる」
「ほんと? やったー! ね、ゆびきり、ね!」
ゆーびきーりげーんまーん、と懐かしい歌を歌いながら、これは厄介な約束をしてしまったと佳菜はまたしても後悔した。砂の城は雨が降っても風が吹いてもすぐに崩れる。水をかけつつ注意深く作らないと、しっかりと固まってはくれない。足元の山はそもそも既に崩れかかっているし、『悪い奴』など来なくても崩壊までは時間の問題だ。
けれど二人の歌声は、歌の初めから終わりまで綺麗に重なっていた。
「ゆーびきーったっ」
「……おねえちゃん、ありがとね」
「ひめ、ちゃん?」
「あたしね、あした、ひっこすの」
「……え」
「でもね、おうじさまがいるからね、あたしぜったい、またかえってくるの!」
そしたらね、このおしろにすむの!
声にならない『ひめ』の真意——勿論、『お城』を作った理由だ——を汲み取って、佳菜は柔らかく微笑んだ。
「王子様のこと、大好きなんだー」
わざと茶化して言ってみる。途端、『ひめ』は面白いくらいに真っ赤になって。
「ち、ちがうもん! かなおねえちゃん、ゆびきり、わすれないでね! ばいばい!」
甲高い声でそう叫ぶと、『ひめ』は全力疾走……であろう速度で公園から去って行く。小さな『ひめ』の姿は紅い夕暮れの景色に溶けていき、公園には砂の『お城』と佳菜一人、そして一台の自転車が取り残された。

「置いてかれちゃったよ……」

何とはなしに呟くと、ぽつんと佇む佳菜の上には夕陽を侵食する暗闇が迫っていた。
「あーもう、宿題もしなきゃいけないのにぃ」
ここから家まで、どんなに急いでも二十分は自転車を漕がなければならない。ちょうど、途中で下手に止まると疲れを自覚して帰るのが面倒になる距離だ。いつまでも独り言を繰り出している場合ではなかった。
太陽の断末魔が色として顕れたような夕焼けに目をしばたかせつつ、佳菜は自分が立ち止まる原因となった砂の『お城』を見遣る。橙色に染まる半壊した砂の山からは真っ暗な影が長く伸び、どこか異様な光景を生み出していた。
まるで、その影から『悪い奴』がひょっこりと現れそうな雰囲気。
……そんな、まさかね。
くだらない想像に佳菜は首を左右に振って、思考をかき消し——いや、かき消そうとして異変に気づく。
身体が何かに縛りつけられたように動かないのだ。
しかもあろうことか、両脚は自分の意志に反して、まっすぐに砂の山へと向かおうとする。
「……ちょっと、ちょ、やめてよ、何なのよ!」
自分の足に向かって怒鳴るなんてありえない、と佳菜は混乱する頭で思った。
「ま、待って、そっち行ったらダメだってば」
いつの間にか自由になった両腕で、太腿の辺りをばしばしとはたいた。何度も、何度も——明日にはきっと、青痣になって残る。何度も、何度も、強く、強く。
それでも足は歩み続け、ついに砂城の目前まで辿り着いた。
このままでは、『ひめ』ちゃんの『お城』が崩されてしまう。他ならない、私の手で。
「……止まってってば!」
佳菜は声を張り上げて訴えた。自分の足に、だ。本当にありえない、ありえないけど太腿は痛い。だから多分、これは夢じゃなくて。

『ひめ』ちゃんの『お城』が壊れてしまう。
『ひめ』ちゃんの『お城』を崩してしまう。

砂の山から迫り出した黒い影に夕陽で伸びた自分の影が重なり、佳菜は身震いをした。その塊はどこか化け物じみた輪郭を持ち、揺らめき、蠢いている。悪意あるモノの動きに、気分が悪くなる。私はコレに操られている、という確信。
あくまでも抗う理性。来るべき高揚感。欠片の後悔と爽快感を秤にかけ、より重いほうは?

「止めて!」

叫んだときには、跡形もなく。


砂の城 終
再掲元:個人サイト(閉鎖済)2003/08/27

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