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[エッセイ] まどろっこしくても

 仕事の合間に友人とくだらないLINEのやり取りをして笑っていたら、
「話は変わるんだけど、『君の膵臓をたべたい』観たことある?」
と訊かれた。確かに話がかなり変わる。そして、この類の話の展開は限られている。一緒に鑑賞会をしようと誘われるか、感想を語り合うかのどちらかに違いない。だから僕は会話の先を見越した上で、
「観てなかったら何が起きるの?」
と返した。すると、
「何も起きない」
と返ってきた。
 釣りで浮きがツンツンと動くような感覚がちょっと面白く感じて、もう少し遊んでみることにした。
「観てたら何が起きるの?」
「感想をお伺いしたい」
 お伺いしたい、という言葉遣いがこれまた少し可笑しく感じた。自分の心がいつもより少しゲラな気がした。生活の充足感によるものなのか、はたまた会話相手の人柄によるものなのか。そんな心がほぐれるような可笑しさと同時に、疑問も少しあった。もし映画の感想を語りたいなら「あの映画良いよね」から入ればいいのに、どうして急によそよそしく感想のお伺いをしてきたのか。だから尋ねてみることにした。

 友人が言うには、『君の膵臓をたべたい』をずっと観たいのに観る決心がつかなくて、3年近く予告しか観れずに殿堂入りしているらしい。
 一体どうしたらそんな事態になってしまうのか気になってもう少し聞いてみると、どうやら予告の段階でうるうるしてしまって本編に耐えられる気がしないからだという。

 ここまで聞いて僕は理解した。ちょっと回りくどい「一緒に観たい映画がある」というお誘いだったのだ。だからまた少し先回りして「それは楽しみ!」と返した。句点代わりに感嘆符を使うことを躊躇う僕の感嘆符はかなりレアだ。すると、「えー、じゃあ今度一緒に観て」と返信が来た。まったくもって会話の順序が逆である。ちょっとだけTENETだな、なんて思って鼻から柔らかい笑いが抜けた。
 笑いながら返信を考えていると、間を空けずに追加の注文が届いた。
「次の日休みの時ね!!!!」
 感嘆符が4倍になって返ってくるほど心に風穴が空く予感がしている様子が面白くて、また少し笑ってしまった。


 映画を観る約束をしてから予定を何度か打診したけれど、友人は週末が良いとかバイトがあるとかで、なかなか観る日を決めてくれなかった。だから電話で話しているときに半ば奇襲で鑑賞会を開いた。
 AmazonPrimeのPartyWatchのリンクを送りつけると、友人は「え?今?」と少し動揺しながらも観念した。きっとこうして背中を押されたくて一緒に観ようと僕を誘ったのだから、発注通りだと思う。

 再生ボタンを押してから終わるまでは、すぐだった。『君の膵臓をたべたい』を何度も観たことがある僕は、友人がボロボロ泣く様子を高みから見物する予定だったのだけれど、気づいたら僕もボロボロ泣いていた。

 映画の中身は知っていたはずなのに、2年ぶりに観ると湧いてくる切なさの毛並みが大きく変わっていた。そして何よりも、この映画を真っ暗な部屋で一人で膝を抱えて観たことしかない昔の自分が思い出されたことで切なさに拍車がかかった。
 今まで、この映画を観終わった後に抱えきれない気持ちをTwitterに吐露しても返ってくるのは意味があるのかないのか一切わからないハートマークだけだった。
 それに比べて今回は、スピーカーから映画の音と一緒に友人が泣く音が聞こえてきた。同じ時間を共有して、同じものに触れて、それぞれが感情を揺らしている状況そのものがじんわりと嬉しかった。
 『君の膵臓をたべたい』の世界から漏れ出るものを察知して、一人で触れられずに3年間も尻込みするほどの感性を持つ人には、僕のこれまでの話や苦しみを話す必要がない気がする。人間関係改善のため、なんて大層な理由も要らない。根底にあるものが似ていて、言った後に分かってもらえることが明らかすぎて言う気すら起きない。自分を説明する必要すらない心地良さ。

 他人との交流では、必ず誰かに傷つけられる。そして、誰かを傷つけてしまう。熟れすぎた果物のように、小さな傷からすぐに腐ってしまう面倒な性格の僕にはとことん向いていない。だからたくさん失敗した。それでも、人と交流することを諦めなくて本当に良かった。素敵な友人と『君の膵臓をたべたい』を観て、そう思った。

そして誰かを好きになって、手を繋いで、ハグをして、鬱陶しくても、まどろっこしくても、たっくさんの人の心を通わせて。

映画『君の膵臓をたべたい』ラストシーンより

 

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