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[エッセイ] 夢は捨てたと言わないで

 深底のフライパンに油をひいて牛肉を炒める。肉の色が変わったら、すりおろした生姜を少し入れて料理酒を感覚で振る。再び煮立ったら、醤油と味醂と砂糖をこれまた感覚で振る。細かい分量とかが苦手な人間だから味付けは全部感覚でする。再現性がまったくない。属人的である。

 味付けを終えてぼーっと鍋を眺めて居ると、鍋がまた煮立ってくる。そうしたら、木ベラで肉をフライパンの端に寄せて、水切りをして8等分に切った絹豆腐を形が崩れないように木ベラに乗せてから滑らせて鍋に入れる。あとは、落し蓋をして弱火で煮込みながら手作りレモンチューハイを飲めば完成である。寒いこの季節、コンロの火のぬくもりで酒の回りが少し早い気がする。見つめても煮えやしないと知りながらも鍋を見つめて、ある映画の余韻に浸る。

 Netflixで全世界公開された劇団ひとりさん監督の映画、『浅草キッド』

 この映画はビートたけしさんの同名のエッセイを原作としていて、たけしさんの下積みの青春時代を描いた内容となっている。夢追う若き日のたけしさんの活力や、昭和の浅草の街の粋さ、たけしさんの師匠さんである深見千三郎さんの不器用ながらも懐深い生き様など、小綺麗さが求められる近年の社会から言わせてみれば臭くて仕方がない世界がザラザラと描かれている。
 この映画の主題歌は同名のビートたけしさんの『浅草キッド』である。細かいことを言えば、この曲は映画で描かれているのツービートの相方であるビートきよしさんのことではなく、その前にコンビを組んでいた相方への追憶を歌ったものではあるのだが、たけしさんの生き様という文脈においては大きな違和感はないと思う。

 そんなこの曲は
「お前と会った仲見世の煮込みしかないくじら屋で」
という歌詞から始まる。この「くじら屋」とは今も浅草にある「捕鯨舩」という居酒屋のことを指す。このお店は売れる前のたけしさんが通っていたお店で、今は「若い芸人に飲ませてやってよ」とたけしさんが飲み代を預けてあるので、食うのに困った芸人が来ればただで飲み食いが出来るらしい。
 僕は別に売れない芸人でも売れている芸人でもないのだけれど、たけしさんのファンなので聖地巡礼として「捕鯨舩」を何度か訪れたことがある。カウンターの中の鍋で煮込まれている肉豆腐煮込みを勇気出して注文して食べたときの感動は今でも思い出す。熱々の豆腐と格闘して最後は諦めてチューハイで冷まして飲み込んで涙目になった僕に大将が「落ち着いて食べな」って笑いながら言ってくれたことがとても嬉しかった。
 そうなのである。Netflixで「浅草キッド」を観た余韻に浸り過ぎて、自分で肉豆腐を作っているのである。味は「捕鯨舩」の煮込みとは違うけれど、せめて同じ名前の料理を作って食べることでもう少しだけ余韻に浸っていたいと思ってしまったからだ。

 ちょっと大きな事を言うと、今の人間の文明社会はノウハウを文字として蓄積して、加えて科学技術によっていろんな物事をコピー・アンド・ペーストすることで発達してきた。物事の効率がどんどん改善されることで豊かさを生み出してきた。
 でもそんな豊かさ中に居てもまだ、いや、居るからこそ、僕は属人的なものに惹かれる。非効率なものや生き様に惹かれてしまう。だから『浅草キッド』を観て泣いてしまう。多分僕だけではないと思う。
 会社においても、業務のマニュアルなどの体系化された仕組みから少し外れた人が個性を発揮して仕事を熟していると、その人の下には人が集まりがちである。会社員が社会の大多数を占めるようになっても、そこから外れた自由業の芸人やアーティストたちは人々から憧れられる。
 属人的であることは煙たがられるが、一方で個性として評価もされる。そんなとんでもない器用さを求められる現代社会に疲れた人の目には、不器用ながらも真っ直ぐに自分なりに生きている人というのは眩しくて仕方ない。眩しくて仕方がない。本当に。

 鍋がグツグツと言い始めた。肉豆腐の完成だ。どれどれ、と味見がてらに牛肉の切れ端を食べてみると、我ながら優しい味に仕上がっていてつい笑みが溢れてしまう。

 

 




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