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独立心とノーサイドの精神 薩摩と西郷隆盛

桜島を目の当たりに

梅雨明け間近の鹿児島を訪れた。
同じ九州の中でも南部の宮崎、鹿児島は他県と比べると気候ががらりと違う。
空気が暖かく、少し湿り気味で、陽射しも強い。南九州は温帯と亜熱帯の間に位置することを肌で感じることができる。
鹿児島の緯度は、世界の都市の中では、中国の上海、エジプトのカイロ、アメリカのヒューストンと同じだ。

今回は、宮崎からJR日豊線の特急に乗り鹿児島に入った。早朝の電車を一本外すと次の便が2時間後になることがわかり、ホテルの朝食も早々に済ませて電車に飛び乗った。福岡の博多から、陸路で九州の東側、大分、宮崎経由で鹿児島まで行こうとすると、乗車時間だけで7時間以上はかかる。他方、新幹線を使い、西側の熊本を通って行けば、約1時間40分で着くことができる。

鹿児島中央駅へ着く頃には、車窓から桜島が見えてくる。湾の海面上に全景を眺めることができ、自然と気持ちが高ぶる。桜島の形状は富士山のように美しく、ただ、山の稜線は少し緩やかだ。ふと、静岡の人が富士山に、鹿児島の人が桜島に抱く感情には近いものがあるのではと思ってみた。噴煙があるかないかの違いはあるにせよ、雄大な山の佇まいを近くに目にして生活をする中で、山に対する誇りや安心感、畏敬の念を抱くのは共通ではないかと。

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駅に降り立った後、いつものように観光案内所で行先を確認し、周遊バスの切符を買い求め、目的地に向かった。今回の主な訪問先は、「鹿児島歴史・美術センター黎明館」と「西郷南洲顕彰館」である。人口約60万人の鹿児島市の中心地、主として鹿児島(鶴丸)城の跡地と標高約100mの丘陵、城山周辺を回ってきた。

朝の早い時間に鶴丸城跡地に向かい、跡地内にある黎明館に着いた。入口の長蛇の列に驚いたが、列は、私が向かう常設展の方ではなく、エヴァンゲリオンの特別展の方であることがわかりほっとした。

館内は、歴史や民俗、美術・工芸等にコーナーが分かれている。これまでに行ったどの九州の博物館よりも全体としてのまとまりがあるように感じられた。そして、明治維新以降の歴史の展示は充実していた。

南九州の独立心

黎明館の歴史コーナーの壁には、時代ごとに年表があり、縦向きに「全国」と「南九州」が並列に掲げられている。各時代の説明書きを読みながら、次第に、この地の人たちが持つ中央からの強い独立心というものを感じるようになった。まずは、そのあたりからの説明に入りたい。

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古代の南九州の年表で、最初に目を引くのが、大和朝廷に対して反乱を起こした720年の隼人の乱。隼人とは古来、九州南部に住んでいた人たちの名称だ。彼らは中央政府による農地法(班田収授法)に抵抗したが、大伴旅人率いる朝廷軍に鎮圧されている。この乱は隼人が「自分たちのくらしを守る戦いでした」と展示の説明ではなされている。

また、九州の南部では、鎌倉時代から江戸時代までの間、領主が変わっておらず、ほぼ600年以上に亘って、島津氏の支配下になっている。

そもそも、島津氏は源頼朝から守護職(軍事司令官)として派遣された武将だが、この地に定着して勢力を広げ、戦国時代には、薩摩、大隅、日向の九州南部三州を統一した大名になった。

そして、島津の16代当主、義久は、九州の有力な戦国大名、大友宗麟、龍造寺隆信、相良義陽らを相次ぎ戦で破り、九州全体を制覇する目前までに達した。しかし、南下した豊臣秀吉との戦に敗れ、以後、南九州を拠点として勢力を保持することになる。

その後、義久は、文禄・慶長の役(1592・1598年)で1万人の兵士を率いて朝鮮へ出兵し、秀吉に恭順の意を示している。また、関ケ原の戦いでは西軍の武将であったにも拘わらず、義久を継いだ家久は、徳川との関係を修復し、南九州の統治を認められ外様大名としての道を歩んでいる。

以上、古代から近世初頭までの歴史の一コマを見るだけでも、鹿児島の地は、中央政府への反発と協調を繰り返しながら、強い独立心を育んでいたと言えないだろうか。

そして、時代を先に進ませると、幕末・維新の時代において、薩摩はそれまでの中央と地方、支配と服従という関係を逆転させる。

というのも、薩摩は、中央政府である徳川幕府を倒し、他の雄藩と共に、自らが明治新政府の中心に位置するに至るからである。

幕末・維新の時代、薩摩がなぜ、そのような大きな役割を果たすことができたのか、今回は、そうした関心があって、鹿児島を訪れた。本稿は、その短い旅から感じたことの報告である。

はじめに、薩摩藩の歴史とその風土について振り返り、次に、維新の立役者となる西郷隆盛の人間像を考えてみたい。そして、最後に、薩摩と西郷に共通する精神について触れたいと思う。少し長くなるが、お付き合い願いたい。

島津重豪と島津斉彬

まずは、幕末の薩摩の台頭を考える上で、開明的な藩主、島津重豪と斉彬が果たした役割を見てみよう。彼らの力によって維新の種が播かれたともいえるからである。

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江戸後期、薩摩の8代藩主、島津重豪(1745-1833)は、幕府が西洋の文書輸入を緩めた時代、蘭学を積極的に取り入れ、藩の産業振興に役立てている。また、学術振興にも力を入れ、藩校の造士館(1773)や演武館などを設立し、洋学や漢学、武術を藩士の子弟のみならず、百姓や町人の子どもにも学ばせていたようだ。

また、11代徳川将軍、家斉の岳父でもあった重豪は、幕府内でも発言力を有していた。そして、オランダ好きで評判の彼は、晩年、江戸で、曾孫の斉彬を、親しく交わった商館医シーボルトの接見にも立ち会わせていたようだ。

曾祖父に継いで、10代藩主、島津斉彬(1809-1858)も西洋の文物を積極的に取り入れ、他藩よりいち早く富国強兵、殖産事業を推進した。彼は、西洋式工場群である集成館事業を立ち上げ、製鉄、造船、紡績などの近代的な産業を興している。また、薩摩は当時、国内で最大級の軍事力を保有すると見られていたことも付記しておきたい。

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そして、斉彬は幕末の国政にも深くかかわり、公武合体論を唱え、自分の養女、天璋院篤姫を13代将軍徳川家定に嫁がせるなど、幕府内の政治力を増していた。しかしながら、彼は、幕府の大老、井伊直弼と将軍継嗣問題を巡り対立し、志半ばで、50歳を待たずして急逝することになる。

以上の、島津重豪から斉彬へと続く時代に、藩では、西郷隆盛(1828-1877)や大久保利通(1830-1878)ら、維新で活躍する人たちが育っている。

元々、薩摩藩では武士階級が人口の3割を占め、他藩と比べてその比率が高く、また、「郷中教育」という藩士の子弟をグループで教育するシステムがあったこと、こうしたことが薩摩の人材輩出の強みとなっていたようだ。

幕末・維新の時代において、薩摩は、いち早く藩政改革に取り組み、他藩に勝る軍事力や経済力を保持していたこと、そして、藩主が政権の中枢に絡む政治力を持っていたこと、そうした環境があり、新しい時代に若い人士が活躍する舞台が整っていくことになる。

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鹿児島市内には加治屋町という、鶴丸城の中心から少し離れた場所に町がある。西郷や大久保ら、薩摩藩の下級武士が住んでいた地域だ。ここの地元では「討幕から明治維新、日露戦争まで、加治屋町でやったようなもの」という言い伝えがあるようだ。この町の周辺からはその時代に活躍した人材が綺羅星のように出ており、中には、大山巌(陸軍大将)、東郷平八郎(海軍大将)、山本権兵衛(総理大臣)、松方正義(総理大臣)など、よく知られた名前がある。地元の見方はあながち自慢話に過ぎないとはいえない。ちなみに、この町に流れる川の近くで、大久保利通の銅像を目にすることができる。

幕末・維新の時代に、薩摩藩の中でも最も貧しい下級武士が住む町から、国を揺るがす人材を輩出した。後に、彼らは、斉彬の後を継いだ最後の藩主、島津久光の旧体制をも否定して維新の革命を推し進めた。独立心旺盛な彼らは、薩摩を超えて、日本の近代国家建設に貢献することになるのである。

西郷隆盛の登場

次に、ここからは、幕末・維新という時代の立役者となる人物、西郷隆盛(1828-1877)の話しに移りたい。まずは、西郷のプロフィールから見てみよう。

西郷は、薩摩藩の下級武士の家に生まれ、家は、長男である自分を含めて兄弟姉妹7人がいる大家族だった。家計はかなり苦しく、西郷は10代の頃、父親と一緒に商人に金を借りに行ったことを後まで覚えている。

西郷の薩摩藩での最初の仕事は農政の担当だ。農地を訪れ、稲作の状況を調べて、税金を課す役割で、この仕事を18歳から26歳まで行っている。良い先輩に恵まれたものの、次第に、領民を苦しめる藩の農政に疑問を持つようになる。後に、彼のこうした考えは意見書にまとめて藩に提出され、これが藩主、斉彬の目に留まったようだ。そして、斉彬は、若手藩士の中ですでに評判の高かった西郷を江戸に引き連れ、自分の世話役として傍に置く。また、彼は、西郷の見識を高めるべく、水戸藩の学者、藤田東湖や福井藩の思想家、橋本佐内と引き合わせ、西郷の思想や人脈形成の手助けをしている。西郷にとって斉彬は君主でありながら、最大の教師、恩人でもあった。

斉彬が急逝した(1858)後、西郷は、2度の流刑を経ながらも、中央から待望され、また、薩摩の藩士から推される形で、後の大仕事となる薩長同盟、大政奉還、戊辰戦争という激動の時代の中心人物として成長して行くことになる。

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革命家として

少し余談となるが、維新の革命における主要人物と西郷との絡みを示す名場面にも触れておこう。引用は、当事者の言葉や伝聞に基づくもの、小説家の推測によるものであることはお断りしておきたい。

まず、第一次長州征伐(1864)の後、倒幕という目標において、長州と薩摩を結びつけたのは、あの坂本龍馬(1836-1867)である。京都の薩摩藩邸で、立場の弱い木戸孝允(1833-1877)を西郷に引き合わせた坂本は、躊躇する西郷に「長州がかわいそうじゃないか」という最後の言葉で彼の気持ちを動かし、薩長同盟を成立させたという。この軍事同盟が後に倒幕に決定的な役割を果たすのは言うまでもない。

西郷は龍馬との会話で、倒幕の後は「新政府の官吏の道を歩むのか」と聞くと、龍馬に「俺は全く関心がない、世界の海援隊をやる」と言われて、驚いたという。また、龍馬は西郷のことを「釣り鐘に例えると、小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く」という人物評を残したようだ。

そして、江戸城無血開城(1868)に至る過程は、勝海舟(1823-1899)と西郷の話である。西郷は幕臣である勝海舟の西洋列強に対抗する新国家の構想を過去に聞いており、その見識の高さと人物にほれ込んでいたようだ。そして、江戸の薩摩藩邸で2人は再び顔を合わせる。勝は、幕府内の取りまとめと江戸城明け渡しを約束し、西郷はそれを受け入れ総攻撃の中止を決断する。両者の合意の結果、江戸城は血を流すことなく明け渡され、西郷率いる新政府軍が戦わずして勝利を収めることになった。

以上の逸話からも、薩摩の強大な武力を率い、歴史の転換点において決断力を発揮し、新しい時代を切り開いた西郷は、革命家と評されてもよいかも知れない。

ちなみに、勝は「今まで天下で、恐ろしいまでの人物を二人見た。一人は横井小楠(熊本藩の思想家)、もう一人が西郷隆盛だ。天下の大事を負担する者は西郷に違いない」という言葉を残している。そして、勝は西郷が没した後も、終生、西郷家の面倒をみていたようだ。

男前と愛嬌

ところで、西郷という人物の何が人を動かし、歴史を動かす決定的な役割を果たしたのだろうか。
それは、やはり西郷が多くの人を引きつける圧倒的な人間的魅力を持っていたから、としか言葉が浮かばない。まずは、男前の話から入ってみたい。

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幕末・維新の時代、当時の日本人男性の平均身長が155センチだったころ、西郷の身長は180センチを超えており、体重も百キロを超えて、力士のような体格をしていたという。そして、目が大きく、顔の彫りが深くて、人が一度会ったら忘れられない顔をしていたようだ。西郷の体躯と顔、外見がもたらしたスター性は否定できないだろう。

ちなみに、藩主の島津斉彬に見いだされた若い頃、西郷の最初の仕事が、将軍の嫁を擁立するための、江戸幕府の大奥との交渉だった。彼は、13代将軍、徳川家定と、斉彬の養女、天璋院篤姫との縁結びを成功させている。彼が女性の間で人気がなければ成し遂げることができなかった芸当かもしれない。

そして、外見のみでなく、彼の人柄や振る舞いにも愛嬌があり、人を引きつけてやまない点があったのではないか。

幼い頃、西郷は、身体が大きくて、動きが鈍く、やや間抜けでのんびりとした印象を与えていたようだが、大人になってもその雰囲気は変わっていなかったかもしれない。流刑地でも、西郷は人気者で、島の子どもたちと遊んだり、文字を教えたりした話が伝えられており、牢屋では、着るもの、食べものに無頓着で、見張り役が見かねて、世話をしたという話も伝えられている。また、彼は、甘党で、鰻が好物、上野の彰義隊との戦争では、風月堂に黒ごまパンをたくさん作らせ、官軍の兵士に配ったという。そして、彼の犬好きは有名な話だ。

リーダーとしての器

更に、人を引きつける力という点では、西郷の相貌と人柄に加え、やはり将としての器が傑出していたものと思われる。

新政府軍の司令官として、東北の会津、庄内と戦った戊辰戦争(1868-9)で、西郷は、敗れた庄内藩の藩主・藩士を寛大に扱っている。そのことで、庄内藩の中でも西郷への敬意が高まり、この藩の者がわざわざ、西郷を薩摩に訪問し、その教えを請うということを行っている。その時の問答が後に『西郷南洲遺訓』(1890年)という本になり、西郷の肉声を記した貴重な資料として、今でも目に触れることができる。

尚、この短い『遺訓』の中には、西郷がリーダーに求める資質を自ら示しているので、引用しておきたい。

「万民の上に位する者、己を慎み、品行を正しくし、驕奢を戒め、節倹を努め、職事に勤労して人民の標準となり、其の勤労を気の毒に思う様ならでは、政令は行はれ難し。然るに、家屋を飾り、衣服をかざり、美妾を抱え、蓄財を謀りなば、維新の功業は遂げられまじき。今と成りては、戊辰の義戦も、戦死者に対して面目無きぞ」と記されている。当時の明治新政府のメンバーを明らかに批判したような内容であることは付記しておきたい。

また、西郷は「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末にこまるものなり。この始末にこまる人ならでは、国家の大業は成し得られぬなり」という言葉も残している。

戊辰戦争の後、郷里に戻っていた西郷は、請われて新政府に復帰し、廃藩置県の実行などで大役を果たしている。その頃、彼は、着流しの姿で登庁し、他の内閣のメンバーが高級弁当を食べる中、本人は、おにぎりで済ませ、公式の宴席でもいつも同じ服装で、足半を履き、着飾ることがなかったという。

西郷は、先に引用したリーダーの資質を自ら実践することで、新政府の要人の中でも際立った存在だったと思う。

そして、西郷の最期となり、九州全域を巻き込んだ西南戦争(1878年)では、多くの人が西郷を慕い、命を捧げたのは周知のとおりである。

豊前、中津藩の増田宗太郎は、敗戦も濃厚になった最後の戦闘に参加し、西郷と同じく、城山で戦死している。彼は、西郷を慕い「一日先生に接すれば、一日の愛生ず。三日先生に接すれば、三日の愛生ず。 親愛日に加わり、去るべくもあらず。今は善も悪も死生を共にせんのみ」と言い残し、29歳の若さで亡くなっている。西郷の器の大きさを物語る話である。

西郷は、明治天皇からも遇され、1889年の特赦によりその名誉を回復している。そして、1898年には、上野に彼の銅像が立っている。また、少し後、キリスト者の内村鑑三は、『代表的日本人』(1908年)という書物の中で、最初の日本人に西郷を挙げて、維新のリーダーとして、また、天の自然の法理に生きた、無私の人として高く評価した。

西郷の没後、20年以上を経た当時においても、世間では西郷の人気は根強かったと思われる。上野の西郷の銅像には、庶民から天皇に至るまで、一言では表現できないスケールの大きい人物の偉大さを懐かしむ雰囲気があったのかもしれない。

ノーサイドと薩摩

最後に、薩摩と西郷に共通する一つの精神についてまとめ、締めくくりとしたい。

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今回、訪れた『西郷南洲顕彰館』の隣には、南洲神社があり、そして、南洲墓所がある。
西郷と共に、西南戦争で戦った約2千名の戦士の墓が、西郷を中心として、階段状に鎮座しており、写真撮影が憚るほどに、荘厳な雰囲気を出している。あたかも、西郷が指揮官として、精悍な軍人が傍に控え、今に生きている人を正視し、西南戦争の歴史的評価を待つというような迫力さえ感じた。

激動の幕末・維新の革命は、西南戦争という悲劇で幕を閉じる。この戦争は維新で既得権を奪われた不平士族や、西郷が創設した私学校の学生による新政府批判が、国内最大の内戦へと発展したものである。官軍に敗れた西郷らは賊軍とみなされた。戦争の意義と、西郷の役割についての歴史的評価はまだ決着を見ていない。
先の内村鑑三は、当時から評価には100年はかかるだろうと記していた。

そして、顕彰館の脇にある、比較的新しく立ったばかりの石碑にも目が向いた。説明を読むと、西南戦争で戦った官軍と西郷軍、両方の和解を目指して、数年前に設営されたものという。今でも、戦争の犠牲者の墓所は、官軍と西郷軍で別の場所にあるようだ。

歴史を辿れば、薩摩は、文禄・慶長の役で犠牲となった敵味方、両軍の戦死者の霊を慰めるということを400年も前に、高野山に石碑を立て行っている。近年、新しく石碑を立てた人たちも同じような気持ちだったに違いない。

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戦争が終わった後は、敵味方なく犠牲者を慰霊し、両陣営の和睦に配慮する、これは、かって、西郷が戊辰戦争の後にも示した、薩摩伝統の、ノーサイドの精神かと感じるがいかがだろうか。

池波正太郎は小説の中で、西南戦争は「日本人同士の最後の戦争になってくれればよいと思うちょる」と、西郷に言わせている。くしくも、この戦争では、西郷は勝者ではなく敗者の側となった。残念ながら、勝者の側が西郷に対して、ノーサイドを伝える文章にはまだ出会ってはいない。

地方からのマグマ

明治維新の革命は、日本列島の南端の薩摩が主導し、藩の末端の下級武士が原動力となり、新しい時代を切り開いている。

日本の南から噴火した幕末・維新の革命エネルギーは巨大なマグマとなり、日本国中を席巻した。ある意味で、8世紀の隼人の乱以来、独立心の強いこの地の人々が求めた生活の戦いは、廃藩置県、四民平等、地租改正など、明治政府の一連の改革を実現させ、日本全国で成果を収めたとは言えないか。

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一連の見学を終え、駅前に戻ると、広場には、幕末に、薩摩藩が海外に送り出した19名の留学生たちの大きな銅像が目に入る。

藩は意欲的な若者を世界に送り、学ばせたようだ。この中には後に、地元に戻り貢献した者、日本の近代化に貢献した者、海外で骨をうずめた者もいたようだ。

果たして、これから、日本や世界を驚かすほどの独立心を持った九州の若者は出て来るのだろうか。

新しいリーダーが現れてくるのを楽しみにしながら、本稿を終えたいと思う。

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参考文献:

『誰も書かなかった西郷隆盛の謎』(2017年 徳永和喜監修 KADOKAWA)
『西郷隆盛』(1979年 池波正太郎著 角川文庫)
『幕末維新のこと』(2015年 司馬遼太郎著 関川夏央編 筑摩書房)
『代表的日本人』(1908年 内村鑑三著 岩波文庫)
『西郷南洲遺訓』(1939年 山田済斎編 岩波文庫)

関連サイト:

鹿児島県歴史・美術センター黎明館
http://www.pref.kagoshima.jp/reimeikan/index.html

西郷南洲顕彰館
http://saigou.jp/


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