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ねこの時節を待つ。𓃠


吾輩は人間と同居して彼らを観察すればするほど、彼らはわがままなものだと断言せざるをえないようになった。
(中略)
いくら人間だって、そういつまでも栄えることもあるまい。まあ気を長く猫の時節を待つがよかろう。

夏目漱石『吾輩は猫である 』より引用


𓃠𓃠𓃠


「風(ふう)、こっち向いて!違う!違う!こっち!そうそうっ!」

母は愛猫の風の写真を撮っていた。なぜそこまでして撮りたいのか、それは人に愛猫を自慢したいからだ。

"これ見てえええ!うちの猫!"

母が撮った写真を人に見せながらそう言い放つ姿が目に浮かぶ。余程カメラ目線の風を撮りたいようだ。風への指示がハンパなく飛んでいる。そして、おぞましい、実におぞましい、その体勢。四つん這いで頭を落としお尻を突き出して写真を撮る姿は、グラビアアイドルを下アングルから撮るカメラマンのようだ。知らんけど。

カシャ

私はその母の後ろ姿と風を写真に収めた。行儀よく座る風は幾分、戸惑っているように見えた。頭が微妙にカクカク揺れているし。

なんとか撮り終わり解放された風は、即座に私の元へやって来て「ウオン。」と鳴いたあとに毛繕いを始めた。猫はきれい好きだからよく毛繕いをするが、ストレスを感じた時にもするそうだ。たぶん、母の繰り出す指示と拘束時間の苛々を毛繕いで収めているのだろう。なんだか居た堪れない。

そして、またある時には、風が柱へ前足をかけて爪を研ごうとした。すると、母は

「こらあああっ!そこで爪を研ぐなあああっ!」

と、烈火のシャウトが轟くと、風は前足を下ろして疾風の如く廊下を走り抜けた。そして、母が見えなくなったところですかさず毛繕いをした。

私は、その姿を目にして人間社会のルールを守らなければいけない猫は大変だなあ、と思った。風はこのことをどう思っているのだろうか。人間の作ったルール下で生きることを。それを作る人間のことを。そう考えていたら夏目漱石氏の『吾輩は猫である』を思い出した。





この小説は夏目漱石氏の処女作で、自分のことを吾輩と呼ぶあの有名な猫の視点で展開される。

吾輩は、教師で胃弱な苦沙弥先生を主人と呼び、貶しながらも時に肩を持つ。そして、吾輩は主人と細君のやり取りを見物して意見を述べたり、主人の所へやってくる人の話を聞いて見識の高いことを語ったりする。時代を風刺することもあれば、猫同士で人間のことを話す時もある。その鋭い観察眼で人間を視て、ある種の哲学を述べる吾輩はとても魅力的だ。私は、その博識と観察眼に感服する。吾輩は大体、人間の生態に対して呆れているが、そんな吾輩でも人間を想い憂う時もある。


呑気と見える人々も、心の底を叩いてみると、どこか悲しい音がする。

夏目漱石『吾輩は猫である 』より引用



なぜ吾輩には解るのだろうか。人間の深淵を、そして、孤独を。いや、人間が無知なだけなのかもしれない。猫は皆賢くて気高い生き物だから、うちの風も吾輩のように知っているのだろう。風の美しい瞳は人間の全てを見透かしているのかもしれない。

風は、合縁奇縁でこの家にやって来て人間を観察し、呆れ、嘆き、怒り、笑い、憂いている。時に人間の気分の変動を察知し適材適所に身を置く。今は致し方なく人間が作るルールに従ってやり過ごしているだけなのかもしれない。そして、最終的には、吾輩のようにいつか訪れる猫の時節を待っているのだろうか。

そう思うと私のこころは明るく浮いてきた。私も待ってみよう、猫の時節を。そして、逆に猫に飼われる人間になりたい。

「ねぇ、風。私を飼ってくれる?」

「ウニャーワン、ファーキャッ!」

風は盛大な文句を言った後に大きな口を開け、欠伸を置き土産に去って行った。

あ、たぶん私、風に飼って貰えない。




ねこの風𓃠




にんげんの
こころの内はかなしいね
ねこは知ってる
あの日のあなた

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