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真夜中に かもめ食堂𓅮

冬の夜の底、冷たい空気で深呼吸を繰り返すと、肺の輪郭がはっきりとする。素直な体の循環を感じながら寝ようとしたけれど、どうもお腹が減った様子で、ぐうっとくぐもった音が鳴った。そういえば夕飯は食欲がなくて、お茶漬けだけだったことを思い出す。私は「寒い寒い。」と震えながらカーディガンを羽織り階下へ向かうと、炊飯器に残っていたごはんで梅干しのおにぎりをささっと作った。そして、お湯を沸かしてインスタント味噌汁を作り、いただきます、をしてからおにぎりにかぶりついた。温かいごはんに梅干しの酸っぱい!が口腔内に広がり、そこへ味噌汁を啜ると、体の底から歓びが湧いた。おにぎりをぱくぱくと味噌汁をするすると体へ入れて、ごちそうさま、をしたあとに歯を磨き洗い物を済ませて二階へ上がり、布団の中で目を瞑ったけれど、寝ることができなくて。それならば、一層のこと起きてしまおうと、夜の底にストンと腰掛けた。こういうときは、本か映画かドラマを観ようと闇に順応した眼でテレビの電源を点けて、レコーダーの中を彷徨うけれど「コレや!」と、決めることができなかった。だから目を瞑りリモコンの↓ボタンを押しながら安定のドラムロールを口にする。「ドゥルルルルルルル。(結構リアル)ジャンッ!」と言いながら目を開けると、映画『かもめ食堂』だった。




あらすじは、フィンランドのヘルシンキに「かもめ食堂」という小さな食堂をオープンした日本人のサチエ(小林聡美さん)。客は、日本のアニメファンの青年トンミひとり。それでもめげずに淡々と営業を続けるサチエは、やがて訳ありな日本人のミドリ(片桐はいりさん)とマサコ(もたいまさこさん)と出会い、ふたりが店を手伝うことになる。極端な出来事が起こるわけでもなく、雪解け水がぽたりぽたりと落ちて溶けるように物語は進んでいく。

私はこの映画の冒頭が好きだ。主人公のサチエが淡々とした声音で語るエピソードは素朴な匂いがして、親しいひとが生い立ちを話すような親近感が芽生える。

フィンランドのかもめはデカい。まるまる太った体でのしのし歩く姿を見ると、小学生の頃に飼っていたナナオを思い出す。ナナオは体重が10.2kgもある巨漢三毛猫だった。誰にもなつかず、近所の猫にはすぐに暴力を振るい、みんなの嫌われ者だった。でも、なぜか私にだけはそのデカい腹を触らせてくれ、喉をごろごろといわせ、私はそんなナナオがかわいかったので、母に内緒で餌をたくさん与えていたらどんどん太って、そして、死んだ。ナナオが死んだ次の年、トラックにはねられて母が死んだ。母のことは大好きだったが、なぜかナナオが死んだときよりも涙の量が少なかった。それは武道家の父に、人前では泣くな、といつも言われていたからだけではない気がする。私は太った生き物に弱いのだ。美味しそうにごはんを食べる太った生き物に、とても弱いのだ。母は、痩せっぽっちだった。

かもめ食堂より


淡々と語るその口調は不幸も幸せもバランスよく配合されていた。ひとは不幸過ぎてもしんどいし、幸せ過ぎても不安になる。サチエはこのバランスの取り方が上手なひとだ。そして、サチエというひとは、とても芯がある、と私は思った。だって、ひとりでフィンランドへやってきて食堂を開くなんて、めちゃくちゃ勇気がいると思うから。並大抵のひとでは踏み切れない境界線を、ポンッと飛び出す好奇心が備わっているひとなのだろう。私はサチエの言葉に肯いた。

ここならやっていけると思ったんです。私にもできるかなって。

漠然とした確証のないものに動かされるきもち、とても理解できる。私も論理的に動くよりも直感で動いた方がうまくいくことが多い。直感って大切だ。そんな直感型のサチエには、ひとが寄ってくる。最初の客のトンミだって、旅行中のミドリだって、荷物がなくなったマサコだって、サチエの人柄に吸い寄せられるようにやってきて、サチエの世界に色をつけている。その四角い枠に閉じ込められているのは当たり前のようで、当たり前ではない日常があり、フィンランドという遠い異国の地の出来事なのに誰が観ても望郷のように感じるのは、どこの国のひとだって、不幸と幸せと美味しい食事という共通点があるからだと思う。この食堂には、美味しそうな食べ物がそっと登場する。コーヒー、シナモンロール、豚の生姜焼き、鶏の唐揚げ、シャケの塩焼き、おにぎり。その土地の文化をひとを尊重しながら作る料理はどれも素朴で、とてもいい。日本の家庭料理がひとびとをじわっと温めているようで、固い結び目がふわっと解けるような、とても優しいきもちになった。

全編を通して、緩い空気感で物語が進んでいく。そこには起承転結も曖昧だけど、そこがいい。私たちは、無意識に起承転結を求めて、すぐに理由付けをしてしまうけれど、日常のなかに潜む出来事には起承転結などないことがほとんどだし、理由なんてすべて後付けになってしまう。理由があってもなくても、その土地の文化に歴史にひとに、大きなつながりを感じながらゆったりとたゆたうように生きてもいいじゃない、そう思える映画だ。そして、サチエの言葉を借りるとこうなる。

けど、ずっと同じではいられないものですよね。人はみんな変わっていくものですから。


ひとはすこしずつ変わってしまう生き物だ。永遠の愛を誓っても、憎悪に身を焦がしても、それは形を変化させてしまう。でもそれが生きるということなのかもしれない。サチエもミドリもマサコも、小さな諸行無常を受け入れながら、遠い地にあるかもめ食堂で今日も穏やかに過ごしていると思えた映画だった。




お腹も満たされて、温かさに包まれた私は、映画のエンドロールを観ながら深い深い夜の闇に体と意識を委ねた。










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