ひるさがり

通りすがりの外国人、しきりに道を訊ねてくるのだけれど、その言語が私には理解できません、ごめんね。バイリンガルだったらよかったのだけど。

ここに越してきてからもう三年半。社宅にも慣れて、子育ても板についてきて、ワンオペだってお手の物なんだけれど如何せん、外国人の相手だけは無理なの。言葉がね、わからないから。日本語しかわからないから。

「英会話って、どうなのかなあ」

昼下がり、またママ友たちと会って他愛のない話をしていたくて、性懲りもなくやってきた公園、今日はこれで二回目。朝早くに意気揚々とやってきて、誰もいないのを見てため息をつきつつすごすご帰って、息子に昼ごはんを食べさせてからまたやって来た。ゆかりママとみさとママ、特にこの二人は私と歳もそんなに違わないし生活レベルも似ているから居心地がいいんだよね。何を言っても否定されないからのびのびとしていられる。自分が自分らしくいられるのって、生きていくためには必須の条件よね。こんないばら道。

「英会話ねー。私も興味はあるんだけど、なかなかね」と、ゆかりママ。
「わかるわあ。最近このあたりも、特に駅とか多いじゃない外国人」と、みさとママ。

そうそう、そうなのよ、とまた共通事項をみつけて話に花を咲かせる。それぞれの子どもたちは大人しく砂場で砂をかき混ぜている。誰かが泣き出さない限りこの会合は終わらないの。井戸端会議とは、よく言ったもんだ。

日本語以外の言語を学ぶ必要性について、最近私はよく考える。

たまに外国人に道を訊かれる時もそうだけれど、日本って、世界共通言語である英語が通じない辺境の地と言われているらしいじゃない。話せない日本人代表として言わせてもらうと、うん、確かにそれは恥ずかしいよね。

だけど、こっちにだってそれなりの理由があるんだよ。学校で習うくらいで話せるようになるならみんな話せているよ。けれどそうじゃないでしょ。つまりあの時間はまるまるぜえんぶ、無駄だった。そういうことでしょ。だからこその、英会話だよ。

「習うとして、どこが良いんだろうね」と、ゆかりママ。
「駅前にひとつあるよね。今度資料取ってこようか」と、みさとママ。

私たちはみんな、もっとやりたいことがある。英語を習うのもそう。でも、ヨガもやってみたいし、私なんかは手芸とかにも、興味がある。あとはあれよ、働く、とか。スーパーのレジでもなんでもいいから、また自分の時間と労働力を提供して、賃金をもらうというあの社会活動に、もう一度復帰したいよね。

「うわあああああ、ああああ、あああああああああん」

あ、この声は。
背中がピン! と伸びて、叫び声の出所を一応、確認する。やっぱり、うちの子だ。最初に泣き出すのは大体いつもうちの子。私に似て、気が弱いんだから。

「おお、よしよし」

急いで駆け寄り、抱き上げてあやしながら、じゃあまた、とこれで別れの合図とさせていただく。後ろ髪ひかれる気もするけれど、今日は十分おしゃべりできたし、また次回に持ち越そう。私は、英語を習うかしら。きっと、習わないだろうな。そう思いながら、慣れ親しんだ社宅へと一歩踏み出す。



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