「はい、じゃんけん」

 チ・ヨ・コ・レ・イ・ト、と一音ずつ呟きながら栞が数段上に登っていく。その軽やかな後ろ姿を見るともなしに見ていると、彼女がまだ幼かった頃を想起する。遥か昔の思い出に浸るとき、一彦はどうしようもなく寂しくなる。

「はい、じゃんけん」

 こちらを振り返った彼女の笑顔は、まだ十分にあどけなさを残しているように思えた。まだ子供だ、そうだよ、まだ二十歳になったばかりなのに、と胸中で唱えながら、一彦は掛け声に合わせて次もパーを出す。

「お、勝った」
「じゃあ次はお父さんね」
「パ・イ・ナ・ツ・プ・ル」

 パーで勝ったらパ・イ・ナ・ツ・プ・ル。チョキで勝ったらチ・ヨ・コ・レ・イ・ト。そして、グーで勝ったらグ・リ・コ、だ。父と娘で連れ立って、近所の公園や小さな動物園までぶらぶらと散歩に行くことが、昔からの休日の過ごし方だった。こうやって往来の途中で手頃な階段をみつけるや否や、それは始まる。大体が、栞の発する「はい、じゃんけん」という掛け声が合図となって。
 六文字を稼ぎ、栞との差を幾分か縮めることが出来たが、まだまだ一彦の劣勢だった。これもまた、幼い頃から変わることはない。
 ごくたまに旧友と飲み交わすとき、二十歳の娘と未だ二人で遊びに出かけることがあると話すと、大層珍しがられるか、羨ましがられるかの二分だった。

「いいなあ、カズんとこは。娘が素直でかわいくて」
「今時ないよ。年頃の娘が付き合ってくれるなんてさ」
「あんまり大事にしすぎると、嫁に出すときに辛くなるぞ」

 四十になった年に産まれた待望の一人娘だ。可愛くないわけがなかった。目に入れても痛くない、とよく言うが、育っていく我が子の成長を感じるたびに、同感だと深く頷いた。この子にどんなことをされても痛くもかゆくもないと思えたし、栞が幸福でいられるならば、自らがどんな犠牲に遭っても耐えうる覚悟で生きてきた。

「はい、じゃんけん」

 一彦がパーで、栞がチョキ。お父さん、パーで勝ったからって連続で出すのやめなって、と笑いながら、また駆け上がっていく。あの声音で、あの笑顔で、結婚するの、と言われたのはつい一昨日のことだった。相手は、同じ学部の同級生だと。きちんと大学を卒業してから籍を入れるから、安心して、と。それはもう決定事項で、二人で話し合った結果の報告を父親として受けただけのことであって、これから覆すなんてことはもう、とても出来そうになかった。

「はい、じゃんけん」

 暮れかけた西日を背負って、栞が笑う。
 結婚したらもう、こうやって階段を探すこともないのだろうと思うと、さあ、そろそろ帰ろうか、といつまで経っても、言えない。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。サポートいただけた分は、おうちで飲むココアかピルクルを買うのに使います。