活字をよむ女の子



活字を読むのが好きなので、
よく分からない資料の文章を読むのも好きです。

本は常に持ち歩いています。
大地震が起きて、
電話も電波も繋がらなくなった経験をしてから、
携帯電話の充電が切れちゃって、
音楽も聴けなくって、
何もすることがなくなっても
本が読めるように。

活字を読んで心を落ち着かせられるように、
いつでも本を持ち歩くようになった。



人生の時間に対しては、かなりケチなところがある。
活字を読んでいるから、時間を有効に使っているということには、もちろんならないが。


今日も、カバンの中には、本があったけれど、取り出すのが億劫だったから、
ぼんやりと電車内の広告を眺めていた。

『もしあと一年で人生が終わるとしたら』
という言葉が目に入る。

新刊の書籍の広告のようだ。



もしあと一年で人生が終わるとしたら…。



「私事で大変恐縮ですが、あと1年しか人生がないので…」と言って、きっと今すぐ仕事を辞めるだろう。


そっか、私いま、何かを我慢しながら生きてるのか。

まぁそんな時期も人生には必要だ。
なんて暢気なことを言えるのは、
人生がまだあと何十年も続くものだという前提がある場合によるものである。

人生なんていつ終わるかわからない。

もしかしたら明日終わっちゃうかもしれないのよね。
ふむふむ。

面白そうだけど、こうゆう系の本は読んだところで、あまり心打たれることがない。
自己啓発本なんかに書かれていることって、結局は学校とか社会とかから自力で学べるようなことばかりで、
こうゆう本に頼るタイプの人って、何も考えず何も学ぼうとしないで、ただ生きてるだけなんじゃないのかなと思ったりする。


私もあるタイミングで、明日死んでもいいように生きようと思ったことがあった。
それからはもっと長生きしたいと思うようになった。


とは言いつつ、Amazonでその本を検索してみる。
評価なんかもちゃっかり読んじゃったりする。
うん、本屋で立ち読み程度で良さそう。

そのまま関連する本として出てきた書籍を見てみる。
その中には谷川俊太郎の詩集もあった。


物心ついた時から、身近に詩というものがあった。
本棚に読み聞かせ向けのまど・みちおの詩集がたくさんあったことも覚えている。
おそらく祖父はまど・みちおのような幼児向けの詩を読み聞かせるよう、両親に言ったのだろう。
しかし、私がいつも心惹かれるのは谷川俊太郎の詩だった。
初めて声に出して朗読したのも、谷川俊太郎の詩なんじゃないだろうか。



あいするってどういういう感じ?

6歳の私が谷川俊太郎の詩を読んでそう呟いた時の情景を、祖父は詩に描いている。


『いちねんせい』という絵本詩集の中の一つの作品だ。
お気に入りの本だった。


しかし、結局それらの詩集は父の手によって古本屋に売られてしまった。

でも私はそのあと、谷川俊太郎のその詩集だけを、同じ古本屋から買いとった。


(私が実家を出て海外に行くことになった時、父に伝えたのは"本棚にある本だけは絶対に触れないで"ということだけだった。)


それだけ好きだった俊太郎だけど、
そんなにたくさんの詩集は、実は読んだことがない。
正直、詩はそんなに好きなジャンルではないのだ。


もしあと一年で人生が終わるとしたら。

俊太郎の詩集を全部買って、
人生が終わる、その瞬間までずっと読み続けたい。

もちろん仕事なんかやってられない。

生きることを考えずに
生きていたい。


仕事帰りにBRUTASという雑誌の村上春樹特集の下(げ)を買った。
上も買ってはいるが、まだ読んでいない。
読む暇がなかったのだ。



800円そこらで買える雑誌や小説や詩集を、月に一冊買って、毎月読めるだけで、私の人生は幸せなはずなのに、


幸せな時間を削ってまで、無駄に働く人生ってなんなんだろう。

"現実逃避したい"
といつも思いながら出勤する。
同僚だって同じ言葉を口癖のように言っている。

それでも働く理由って何があるんだろう。


逃げることは簡単だと思う。
でも、どうせなら、逃げるんじゃなくて、変えていきたい。



逃げてしまったら、神様に負けを認めたような気になって、なんだか悔しいから。

逃げることは悪ではないけれど、
でも逃げてばかりじゃ成長できない。
どうせ生きるならよりよく生きたい。

こんな歳になっても、成長とか経験とか学習とかそんなことを意識して生きることになるって思わなかった。

大人って、ロボットみたいに何も考えないで生きてるんだろうと思っていた。

でも、そうじゃなかったことに、少し落胆して、絶望して、疲弊して、でも、嬉しくなった。


まぁあまり深く考えないようにしようって思って、感情を無にして出勤する。




少し眠たいし憂鬱なんだけれど、電車に乗って、カバンに入っている本を開く。

実はこれで少しだけ、現実逃避ができる。




「ついでに」
なんて枕詞は余計かもしれないが、ついでに祖父の詩も後で載せておこう。



これを書いている時に、思い出したエピソードであるが、
小さい頃、父が毎週のように図書館に連れていってくれた。
おやすみ前の読み聞かせで、読んでもらいたい本を借りるために。


兄はすぐに眠るけれど、私は何冊読んでも眠らなかったらしい。
そのうち読んでる父が眠ってしまって、私はこっそり布団を抜け出し、階段を降りて、リビングにいる母のところへ行った。
母はいつも驚いた顔で私を見た。


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