見出し画像

がんばれがんばれ同世代

仕事柄いろんな年代の人と関わる機会が多いが、このところ、出会った人が同世代(30歳そこそこ)ってだけでなんだか嬉しくなってしまう。

これまでは特別、「同世代だから」というだけで他人に親近感を覚えることはなかったし、なんならたまたま同じような年の頃に生まれたからといってひとくくりにされることを忌み嫌っていたが、なぜだか最近は妙な親しみを感じてしまうのだ。

津村記久子さんの言葉を借りると、"ほとんど同じだけの古さの人間"に対する一方的な連帯感みたいなものかもしれない。

というのも、最近プロ野球を観ていてあることに気付いた。
チームの中心でプレーする選手たちのほとんどが、自分より年下であるのだ。

大学1年の夏、甲子園で野球をする丸刈りの若者たちに対して「この子ら、全員自分より年下…!」と、軽くショックを受けた時よりも鈍い何かが肚のあたりに落とされた気がした。

幼き頃、高校球児は「永遠のお兄さん」で、プロ野球選手なんて全員「永遠のおじさん」だったのに…。
特に永遠のおじさん感の強い豪傑助っ人外国人たちだって、だいたい年下だ。

そんな旬まっさかりな若手選手たちの傍ら、アラサーと呼ばれる私と同世代の選手たちは、「若手」と「ベテラン」の間の微妙な立ち位置で格闘しているようだ。

哀愁、意地、粘り。
そんな言葉が似合うようになってきた彼らのプレーには、なんだか胸が「ぎゅん」となる。
「きゅん」ではなく「ぎゅん」だ。

若い4番バッターに3ランを食らう…
シーズン序盤から続く不振、また凡打…
ああ…ぎゅん。

チャンスでしぶとく内野安打!
ピンチを背負いながらも気迫の投球で切り抜ける!
わあ!ぎゅん!

この「ぎゅん」の正体はよく分からないが、なんだか他人事とは思えず、おいちゃんとやれよー!と無邪気に野次ることは間違ってもできない。
「できて当たり前」の責任と期待を一身に浴びる彼らへの歓声やため息は、私の耳に奥にもツンと響くのだ。

若さというメッキは確実に剥がれ始めているものの、「もうおばちゃんやわ…」などと安易に口にするのも、目上の人へのリスペクトに欠ける気がして憚られる。

そんな中途半端なお年頃。

結婚する者、子どもを産む者、1人で生きる者。
各々の人生のフェーズは20代の頃より大きく枝分かれし、孤独感は一層深くなる。

単純に、それなりの年代に差し掛かったなぁというだけの話であるのだが、なんせ人生1回目なので、まぁアラサーやしこんなもんよな!みたいな達観もできず、いちいち体と心と環境の変化が身に沁みてしてしまう。

我ら1990年近辺生まれの者たちは、ゆとり世代などと言われるわりに、結構「頑張る」ことを強いられてきた世代だと思う。

24時間働けますか?的世界観の前時代性と、頑張らない生き方的な現代性の狭間で、mixiだのKYだの同調圧力だのに苛まれながら、結局どうしたらええねん!?と右往左往しながら頑張るしかなかった。

バブル崩壊後に生まれ、生きてきた時代まるっと「失われた30年」なんて表現されれば、おいおい勝手に失ってくれてんちゃうぞボケ、と悪態つきたくもなる。

今じゃ他人に安易に「頑張れ!」と言うことにも慎重になってしまうチル万歳な風潮。
エールと無神経な圧力は紙一重だ。

できることなら頑張りたくない。そらそうよ。

だけどあえて言いたい。
頑張れ、頑張ろう。
我々は自らにそう言い、周囲に散々言われながら、やっぱり頑張ってきた世代だから。
結局は頑張っちゃう哀しき世代だから。

ただし、これまでのように、ただガムシャラに頑張れとは言わない。

明日の自分に楽をさせてあげるための頑張り、マイナスの事態を回避する頑張り、30代の平熱を維持するための頑張りなど、いろんなバリエーションの頑張り方を習得していけばいいのだ。

同じような古さで、どうにかこうにか頑張っている人がいる。
そう思えるだけで、私もまた少し頑張れる気がするのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?