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1・絵を描く少年=私が学校へ行かなくなるまで

私は7歳の時に、大きな交通事故に遭い、頭部を地面に強打し、意識不明が数日間つづきました。
その時、病院の先生から両親には、私の両目失明と四肢麻痺の後遺症は免れないだろうと言われたそうです。
しかし1ヶ月の入院後「目が見えなくなる、手足が不自由になる」ということはなく、幸いにもその2ヶ月後には私の身体は完全に回復し、小学校へ復帰することが出来ました
それが1976年の8月、今から46年前のことです。(※2022年9月時点)

退院後、私は絵を描き始めました
文字を読んだり、話したりするよりも絵を描いている時の方が、なぜか身体が楽で心地良かったからだろうと思います。10歳の頃にはノートに鉛筆でストーリー漫画を描くようになり、中学に上がる頃にはペンとインクで、本格的な漫画原稿を描くようになっていました

その後(後述しますが)、読売国際漫画大賞(中学生の部・優秀賞)を受賞することになり、学校で絵を描く男子として、全校中に有名になっていました。
そんな中学二年生の夏休み明け、クラスメイトの絹見くんが私を絵の展覧会に誘っってくれました。
それが「岡本太郎展」だったのです。

岡本太郎は、その頃よくテレビに出演していました。
「な、何だこれは!」「何だか、わからない」というフレーズの岡本太郎のモノマネは、当時(笑っていいとも!がスタートする前の)タモリや、漫才ブーム渦中のビートたけしがテレビの中で、ことある度に連発し、太郎本人を前にしたその掛け合いは爆笑を起こしていたのです。

「岡本太郎展」1982年ナビオギャラリー図録より(筆者所蔵)

私を誘ってきた絹見くんをはじめ、私も岡本太郎の本物の絵を見たことはなくても、ギャグとしてモノマネはやっていました。
それに学校の美術(図工)の時間にも、風景写生の課題に対して、絵の具を紙からはみ出して抽象的に書き殴り、TAROとサインするという遊びまでクラスの中では流行っていたのです。

「岡本太郎の本物の絵を見に行かへんか」と、
そのクラスメイトの絹見くんは興奮して私に言いました。

夏休み中に、親に連れて行ってもらったと言うのです。
私はあまり乗り気ではありませんでした。その頃の岡本太郎は、子供の私たちにとってもいわゆる”ちゃんとした”画家ではなく、どちらかと言えば、変な芸術家、ぶっ飛んだ人、コメディアン・芸人に近い認識があったからでした
本物の絵を見るのであれば「もっと上手い絵描きの展覧会がいい」とさえ、内心思っていたこともよく覚えています。友達の絹見くんは、クラスで一番絵を描く(絵に関心があるはずの)私を半ば強引に、その展覧会に連れて行ったのです。

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「岡本太郎展」1982年ナビオギャラリー図録より(筆者所蔵)

中学二年生の夏休み明け、1982年9月の最初の日曜日。
阪急電車に乗って、大阪・梅田にあった「ナビオギャラリー」という阪急百貨店の展覧会へ行きました。
そして、これが、私にとって人生で初めて訪れた美術展となりました

この岡本太郎の絵に出会った半年後、私は学校へ行くのを一旦やめました。当時の「登校拒否」という言い方で、今で言う「不登校」でした。
なぜ私が学校へ行けなくなったかは様々な要因があります。精神的なことも大きかったのですが、一番は体の不調でした。一度、眠りにつくと、身体が重くなり、その倦怠と激しい頭痛で、目が覚めても体を起こすことがものすごく辛くなることがよく起こりました。

今から40年前のこと。7歳の交通事故から7年ほどの歳月が流れていました。両親も私自身も、完全に事故から回復していた私の身体の不調が、7年前の交通事故と関係があるとは考えられなかったのです。
こうして、ここから「慢性的な頭痛と、身体の重い倦怠、一度眠ると目が覚めても体が起こせなくなる」という、私の原因不明の病いと30年以上付き合い続けることになるのです。

40年後、同じ大阪の地(中之島美術館)で私は、当時阪急ナビオ・ギャラリーで展示されていた岡本太郎の作品群の前に立つことになりました。
<森の掟>もその一枚です。太郎の<森の掟>の前に立った時(冒頭の写真)、私は「いま生きていることが、紛れもない奇跡の延長線上にあるのだ」ということにあらためて気付かされました

幼い頃に交通事故に遭ったこと。絵を描き始めたこと。
そして当時ヘンな芸術家・岡本太郎がテレビのバラエティ番組によく出ていたこと。クラスメイトの絹見くんが私を展覧会に誘ったこと
その後、学校へ行かなくなったこと。
そして、その数年後、私は絵を描くこともやめてしまうこと・・・。

運命とはこうした瑣末で小さな偶然の積み重なりが、後に極めて重要な要素を形成し、人の命は運ばれていくのだと、私は感じています。
それは決して、”ちゃんとした”決められた道ではなく、明らかに”ヘンで”、”ぶっ飛んだ”、ある意味で”辛く苦しい”と感じることもあるのではないか・・・。それこそが本当は、人が本来歩むべき人生の道なのかもしれないと、私はつくづく思っています。(つづく)

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「岡本太郎展」ナビオギャラリー 1982年9月3日ー26日(主催:朝日新聞/展覧会構成:瀬木慎一/文章執筆:岡本太郎、瀬木慎一、平野敏子)


「展覧会 岡本太郎」2022.07.23 – 2022.10.02 大阪・中之島美術館


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