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教えない理由①

茶道をはじめて17年くらいになる。
と言うにはおこがましいほど、何もできない。
禅にも繋がりが深い茶道には、「初心を大切に」という教えがあるものの、「とはいえ度が過ぎるだろうよ!」と自分にツッコミたくなるくらい、毎回初心者レベルのお稽古をしているのである。

それでもお稽古を続けているのは、その時間が楽しいからだ。
私にとって茶道のお稽古は、瞑想をしているに等しい。
そうか、つまり私にとって瞑想は楽しい、ということか。
(書きながら気づく。笑)

話を元に戻すと。

茶道を習ったことのある方ならご存知だろうが、おそらく最初は「割り稽古」からはじめる。
割り稽古とは、お茶を点てるプロセスをかなり細かく区切り、そのパーツごとに練習するやり方である。
腰につける布巾のようなもの「袱紗」のたたみ方、お道具の拭き方、お茶の点て方……最初の頃は、何をしているのか、これが何に繋がるのか、まったくわからない。

そもそも、なんでこんな風に布の端を持ってグリグリねじるのか、なぜ拭いた後で袱紗を器の下まで滑らせるのか、なぜわざわざ置く位置から遠い手で蓋置を持ってウエストをひねって畳の上に置かねばならぬのか。
所作ひとつ取っても、「?」ばかりだった。
先生にそれを聞くと、「そういうものだから」と返されてばかりだった。

最初に通ったお教室はカルチャースクールだった。
大部屋で大人数、あちこちでお稽古をするため先生も多く、それぞれの先生によって多少、仰ることは違った。
けれどほとんどの先生が「そういうものだから」という教え方だった。

私にとってそれは、とても新鮮だった。
「そういうものだから」と理由を考えず、ただひたすらやる。
私の人生では、あまり無い体験だったから。
新鮮だったけれど同時に、多少ストレスでもあった。
なぜ、ベースの考え方や、全体像を教えてくれないのだろう。
理由もわからず、ただ脈々と続いているからというだけで受け容れなきゃいけないの?
私はいいけれど、こんな教え方じゃ、嫌になっちゃう人もいるんじゃないかしら。と。

数年そこで学んだ後、大部屋でのお稽古よりも、小さなお茶室でお稽古をしてみたいと思い、ご自宅でお稽古をしている個人の先生のお教室に通うことにした。


その先生は聞けば何でも答えてくれる方だった。
70代で大ベテランながら大変勉強熱心な方で、歴女でもあったので歴史の話を絡めながらいろいろなお話をしてくださった。
私の質問に対して分からない時は「なぜでしょうねえ、私もそのように習ってきたから」と正直にお話くださったり、時には「私もちょっと調べてみますね」と言ってくださったり、「最近はどうも、このようにお作法が変わってきているようですよ」と最新情報を教えてくださったりした。
先生によって、お教室によって、教え方って違うのかな、と思った。

ある日のお稽古のこと。

いつも(なんでこんな不自然で非効率な身体の動きをしなきゃいけないんだろう)と思っていた所作をしている際に先生に聞いた。

「なんでこんな、ウエストを無理にねじってまでこの動きなんですかねぇ」

「逆の手でやると、お着物の袂(袖の裾の方)が濡れてしまいますからね」

衝撃だった。
私はお稽古に、洋服で行っていた。
着物でお茶を点てる。
その際に身体はどんな動きになるのか。着物はどう動くのか。
考えたことも無かった。
それまで、「なんでこんなことやるんだろう」「なんでこんな動きをわざわざするんだろう」と怪訝にすら思っていた自分を恥じた。

私が、観えていなかっただけなのだ。
観えていないくせに、すべてをインスタントに教えてもらおうとしていた。
怪訝に思うだけで、毎回のお稽古を考え無しにやっていたのは、私だったのだ。

「『道』のものは言葉で細かく教えない」という。
そのことがやっと、腑に落ちた瞬間だった。
身体でわからなければ、(言葉通り)身にならない。
茶道のお稽古をはじめてから、5年ほどが経っていた。

(続く)

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