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【いざ鎌倉:人物伝】北条時政

さて、今回は番外編「人物伝 北条時政」です。

前回解説の本編では頼朝の死後、幕府の政局の中心にいた北条時政が失脚。
以後、政子・義時姉弟が将軍実朝を支える体制となり、幕政は安定期となります。

これまでの本編解説で書きたいことはほぼ書きましたので、おさらいになる部分も多いですが、今回は北条時政についてまとめます。

過去の人物伝は下記よりお読みください。

https://note.com/kiyosada/m/m8694a7982480

北条時政の出自と娘婿・源頼朝

時政は保延4(1138)年生まれといいます。
頼朝が挙兵した時点で43歳。
伊豆国の在庁官人(地方役人)であり、世が平和であればその名を広く知られることなく、伊豆でひっそりと生涯を終えたであろう田舎武士でした。

その時政の転機は言うまでもなく、娘・政子と頼朝の婚姻です。
治承元~2(1177~1178)年ごろ、時政が大番役として京に出張中、伊豆で流人生活を送っていた頼朝は政子と恋仲になったとされます。
京から戻った時政は驚き、平家に睨まれるのを恐れて二人の婚姻に反対したものの、最終的には認めたとされます。
この話がどの程度史実かわかりませんが、流人の頼朝は言うなれば既に倒産した大企業の御曹司。娘を積極的に嫁入りさせるメリットは北条氏に無いと言ってよく、やはり恋愛結婚(できちゃった結婚かもしれない)の可能性が高いと考えます。

頼朝挙兵後の時政

治承4(1180)年、娘婿の頼朝が挙兵し、時政をはじめ北条氏一同、従軍しますが、石橋山の戦いで平家に敗れ、敗走中に嫡男・北条宗時が戦死します。
この時、宗時が死ななければ、北条家中の争いはもっと平穏に着陸したかもしれません。
本編で何度も登場した年の離れた若い後妻・牧の方を迎えたのはこの頼朝挙兵前後であったと考えられています。
牧の方は平清盛の継母である池禅尼の姪と言われており、婚姻には平家が勝った場合の保険の意味があったのかもしれません。真相はわかりませんが、頼朝の舅という自身の立場と当時の政情が関連する何らかの意味があったはずです。

その後、頼朝軍が立て直すと時政は甲斐源氏との交渉を担当したと言われますが、継続する平家との戦いで戦場に立つ機会はなく、影が薄い。

そんな中、寿永元(1182)年、時政は頼朝の側室・亀の前についてのトラブルで頼朝と喧嘩になり、鎌倉を引き払って伊豆に退去するという行動を起こしています。
詳細は下記で書きました。

この時に時政に同行しなかった息子の義時が頼朝に信頼される一方、時政は政治権力から遠ざけられ、頼朝が死ぬまで両者の関係は微妙なままでした。
後妻の牧の方を寵愛する時政と、若い女にたらしこまれたスケベ親父を白眼視する先妻の子の政子・義時姉弟の潜在的な対立で、頼朝は政子の肩を持っていたという構図ですね。

余談ですが、来年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では政子を小池栄子、牧の方を宮沢りえが演じます。演者2人の年齢差は7歳差のようです。

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牧の方の生年が不明なので実際がどうかはわからないのですが、おそらくは同程度、もしくはもっと近かった可能性もあります。
ほぼ同年代であると思われる継母と継子の女の戦いは北条時政失脚までの北条氏を理解する重要ポイントと思います。

京都守護・北条時政

頼朝生前は目立った活躍の少ない時政ですが、頼朝が珍しく時政を起用したのが寿永4(1185)年、朝廷が源義経に頼朝追討の宣旨を下した時のこと。
頼朝は自分に代わって京の治安を維持し、後白河院とその近臣たちを相手に朝廷の改革と関係者の処罰の要求を求める京都守護の役を北条時政に与えました。

時政が起用された背景は、牧の方を通して京の政界に人脈があったというのが大きいでしょう。
普通の御家人では後白河院と朝廷を相手にするには身分が低すぎるため、「頼朝と親戚」という下駄をはいている時政なら格好は付くというわけです。
頼朝には時政ではなく、源範頼を起用する選択肢もありましたが、平家との実戦経験のある範頼には奥州藤原氏の動きを警戒して鎌倉の守りを任せたかったようです。

九条兼実ら公卿たちは日記に上洛してきた時政を「北条丸」と記しています。
「〇〇丸」は義経の幼名「牛若丸」のように、子供の名前の定番であり、名字に丸をつけて呼称するのはいい年の大人を子供扱いしたかなり侮蔑的な表現です。
それぐらい田舎武士として舐められていた時政ですが、後白河院と公卿を相手に抜群の交渉力を見せ、最後は鎌倉に戻ることを惜しまれるほどとなり、京でもその名は知れ渡るようになりました。

その後の建久4(1193)年の政変では背後に時政の影が感じられるような気もしますが、史料としての証拠はなく、その関与は不明です。大河ドラマではどう描かれるでしょうか。

ただ一つ言えることは頼朝も時政も、この時点で意中の後継者は源頼家しかありえず、時政が源義経や源範頼を排除する動機は十分にあるということです。

頼朝死後の政治闘争と権力奪取

頼朝死後の時政については本編で十分に書きましたので、詳細は本編10~21回をお読みください。
建久10(1199)年に頼朝が亡くなった後も時政は幕政の主導権をなかなか握ることはできませんでした。頼家を支える比企能員が政治的ライバルとして、立ちはだかります。
時政・牧の方と政子・義時は対比企氏で利害が一致することとなり、建仁3(1203)年に実朝を擁立して頼家と比企氏を排除します。

幼い実朝に代わって政治を代行したのは時政でしたが、その権力は娘・政子が将軍生母であるからこそ。
頼朝と政子の婚姻で人生の転機を得た時政は、最後まで政子あっての自分という立場を乗り越えることはできませんでした。
鎌倉武士の鑑・畠山重忠を冤罪で討ったことで、実子の政子・義時ばかりか多くの御家人の信任までも失い、娘婿の平賀朝雅を将軍にするという賭けに失敗して万事休す。
将軍実朝の身柄を義時に抑えられたことで権力を失い、静かに故郷の伊豆へと退去しました。

本来、北条氏の家族間のトラブルでしかなかった父と子、継母と継子の諍いは政子が将軍の生母となり、時政が比企能員を滅ぼしたことで北条氏の立場が大きく変化し、幕府全体を巻き込む政争となって決着したのでした。

その後の時政と牧の方

鎌倉幕府では失脚すると、その後、刺客が襲い掛かってきて暗殺されるというのがよくある話ですが、時政は失脚後も殺されることなく伊豆・北条の地で政治とは無縁に静かに暮らしました。
政子・義時姉弟のせめてもの父への恩情でしょうか。

権力を失って伊豆に退去してからおよそ9年半後、建保3(1215)年1月6日、患っていた腫れ物が悪化し、亡くなりました。享年78歳。

牧の方も時政とともに鎌倉を退去させられましたが、何時の頃から京へと移り住んでいます。
平賀朝雅に嫁いでいた娘が公家の藤原国親と再婚しており、嘉禄3(1227)年3月に時政の十三回忌を京の国親邸で執り行っています。
その頃には対立した政子も義時もこの世を去っていました。

次回予告

幕府内の争いが落ち着いたタイミングで時計の針を少し戻し、京の後鳥羽院について書こうと思います。
『新古今和歌集の編纂』

余談

余談ですが、今週から週刊少年ジャンプで北条時行を主人公とする漫画「逃げ上手の若君」が始まりました。
時行君は時政にとって8世の孫に当たります。
第1話で早速鎌倉幕府が滅びましたが、今後の展開が楽しみです。

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