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【アニメ】平家物語第4話「無文の沙汰」感想とか解説とか

感想は下記より。

第4話冒頭は出産間近の徳子のシーン。
大変な難産であった。
これは治承2年(1178)年11月のことなので第3話から約1年半が経過したことになる。

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安徳天皇、誕生

第3話から第4話の1年半を整理しよう。
結局、清盛は前年の鹿ケ谷の事件の後、後白河院を幽閉することはなかった。この理由には議論があるが、やはりこの時点では高倉天皇に皇子がおらず、後白河院に代わる上皇がいなかったことが大きいように思う。
それだけ「院政」はこの頃、定着していたと言える。
これは徳子が高倉天皇の皇子を産めば後白河院の排除が可能となることを意味する。

平重盛は第3話の「鹿ケ谷事件」で藤原成親が処分されたことで政治的に苦しい立場となった。
重盛は成親の妹を妻とし、長男維盛と三男清経は成親の娘を妻としていた。
成親が処分されたことで重盛は左近衛大将、ついで内大臣の辞任を申し入れているが、内大臣の辞表は受け入れられず留任となっている。

さて本編。
平維盛を訪ねるびわ。

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私はあまり服飾史に詳しいわけではないが、維盛が烏帽子を被っていないのはどうなのだろう。人前で烏帽子を外すのは下着を脱ぐくらい恥ずかしい行いとよく言われるが……

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徳子が難産の末に赤子を産む。
言うまでもなく第81代安徳天皇(言仁親王)である。
徳子はびわに我が子の未来を見ることを望むが、びわは「見えぬ」と即答。
そう答えておきながら徳子の背中越しにびわが見る未来は当然、我々もよく知る未来なのであった。

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斜陽の小松家とその家督

重盛一門は「小松家」と呼ばれる。六波羅小松第に屋敷を構えていたことが由来。
清盛の長男ではあるが、正室の子ではない重盛。政治的立場が弱体すると当然、正室の子である平宗盛の存在感が増してくるようになる。

そんな中、重盛が体調を崩す。
劇中では熊野詣に戻ってから床に伏すようになるが、記録によると前年の冬には体調が悪かったらしい。

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後白河院が体調不良の重盛をわざわざ見舞ったのは史実。
重盛に代わって次男・資盛が後白河院の接待をする。

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びわが琵琶を、三男・清経が横笛を演奏し、後白河院は今様を謡うセッション。
ここで小松家の嫡男について。
当初、重盛の嫡男はこの時横笛を吹いた三男・清経であったと思われる。
三男なのに兄2人を差し置いて嫡男だったのは正室(藤原成親の妹)の長子であったから。官位の昇進ペースは兄2人をしのいでいた。
しかし、「鹿ケ谷」で成親が処罰されると、清経は母が成親妹、妻が成親娘という血縁から完全に失速し、嫡男の地位からほぼ脱落する。
長男・維盛は第3話感想で書いた通り、美男の貴公子と朝廷でも評判であったが、母の身分が低く、こちらも正室は成親の娘。
こうして成親と血縁関係になく、後白河院にも覚えめでたい次男・資盛が小松家の中で相対的に地位を高めることになる。

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後に源平合戦が始まり、維盛が富士川の戦いにおいて惨敗を喫すると、小松家の兄弟たちの地位は完全に次男・資盛が優位となる。

治承3年(1179)閏7月29日、内大臣・平重盛、薨去。
享年42歳。死因は胃潰瘍とも脚気とも。

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この時の重盛も烏帽子を被っていないが考証的にどうだろうか。
死を看取ったびわは重盛の亡者を見る目を受け継ぐことに。
なお、源頼朝の挙兵は1年後に迫っている。

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安徳天皇と平重盛。
生まれ出る命と死する命。
生と死が上手く対比された第4話でした。

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