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【異国合戦(5)】オゴタイ・ハーンの帝国建設と中華世界との対峙

 今回もモンゴル帝国の話。
 チンギス・ハンの崩御によって第2代皇帝の時代へ。

 前回の記事は下記よりどうぞ。


オゴタイとトルイ

 チンギス・ハンの崩御から2年が経った1229年、帝国の最高議決機関クリルタイが開催され、チンギスの三男であるオゴタイが第2代皇帝(大ハーン)に選ばれた。チンギス・ハンが生前、皇子たちの中で温厚なオゴタイを後継者に望んだという。
 なお、オゴタイは遊牧民の古の称号に由来する「ハーン」を称した。これはチンギスが使用した「ハン」とは完全に異なるもので、はっきりと使い分けが確認される。

オゴタイ・ハーンの肖像(国立故宮博物院蔵)

 モンゴル帝国の皇位はチンギスの崩御からオゴタイの即位まで2年間空位だったわけだが、その間は四男・トルイが監国(摂政)として皇帝不在の帝国の政務を代行していた。しかし、最終的に新帝に選ばれたのは代行者のトルイではなく、オゴタイだったということになる。
 この経緯にはやはり不自然さを感じる。皇位継承を巡ってオゴタイ派とトルイ派で熾烈な駆け引きがあったと考えるべきだろう。チンギスがオゴタイの後継を望んでいながら、トルイが監国として政務を行い、有力な後継者と見なされた要因はモンゴルの末子相続の慣習に求められる。
 モンゴルでは上の兄弟から順に独立し、最後まで親元に残って面倒を見た末子が親の遺産を受け継ぐ慣習があった。チンギス・ハンの崩御の時点で長男・ジョチはすでに亡くなっており、次男・チャガタイ、三男・オゴタイ、四男・トルイの3人の皇子がいたが、この末子相続の慣習により、チンギスの遺産の多くをトルイが受け継いだ。
 財力と軍事力でトルイに劣るオゴタイが皇帝に選ばれたのは、チンギスの遺言に加え、仲の良い兄・チャガタイの支持を取り付けたことも要因の一つとして挙げられるだろう。
 しかし、トルイはチンギスの遺産を新帝・オゴタイに譲らなかったため、権威のオゴタイ、実力のトルイという構図が生まれた。このことは、これより後の帝国の皇位継承にも大きな影響を与えることになる。  

対金戦争の決着

 モンゴル帝国の結束は繰り返される征服戦争と戦利品の分配によって維持される。加えて権力基盤の弱い新帝・オゴタイが万人に皇帝として認めら、政権を安定させるには大規模な戦争、大規模な戦果が不可欠であった。
 新帝即位翌年の1230年、モンゴル帝国は先帝チンギス・ハン時代に積み残した金国征討に取り掛かる。オゴタイは三方向から金へと侵攻した。帝国最大にして最強のトルイが右翼軍を、チンギスの末弟であるテムゲ・オッチギンが左翼軍を、そして皇帝オゴタイが中軍を担当した。そして、オゴタイのよき相談役である兄・チャガタイがモンゴルの留守を預かった。
 金は衰えたといえどもこの時点で30万の兵力を動員可能だったという。これはモンゴルを上回る兵力であり、決して侮れる相手ではなかったことになる。

当時の中華世界

 オゴタイの対金戦争で最も功績を挙げたのはやはり帝国最大の戦力を誇るトルイであった。1232年2月、トルイは金の名将・完顔陳和尚率いる15万の軍勢を配下4万の軍で撃破する。この三峰山の戦いと言われる会戦は、馬を降り、塹壕を掘って大雪と寒波に耐えたトルイ軍が凍える金軍を徹底的に打ち破った。この会戦に敗れた金は大きな打撃を受け、野戦でモンゴルに抵抗する術を失う。
 戦争全体の大勢を決したことで、皇帝オゴタイとトルイの兄弟は配下の将軍たちに戦争を任せることとし、合流してモンゴル高原への帰路についた。しかし、その途上でトルイは急死する。先に病に罹ったオゴタイの身代わりに酒杯を飲み干したのが原因と伝わる。オゴタイによる陰謀を疑う説もあるが、記録は真相を語らない。皇帝オゴタイにとって血をわけた弟で、強力なライバルがこの世を去ったという事実だけが残る。
 翌1233年、華南の中華帝国・南宋がモンゴル側に立って参戦する。金も対モンゴル同盟を南宋に持ち掛けていたが、南宋はモンゴルと結んで領土を奪われた金へ復讐する道を選んだ。
 1233年5月、首都・開封が陥落。金の皇帝、皇族は蔡州へ逃亡するが、モンゴル・南宋連合軍はこれを追い、翌年2月に制圧。ついに金国を滅亡に追いやった。
 対金戦争の完勝と弟・トルイの死。これにより皇帝オゴタイはチンギス・ハンの後継者として権力基盤を安定させることとなった。  

オゴタイによる帝国建設

 イスラムと中華、双方の知識・学問を手に入れたことで、モンゴルは「草原の遊牧集団」から「ユーラシアの帝国」へと進化の道を辿る。
 対金戦争を終えたオゴデイはモンゴル高原の中央部に都市カラコルムを建設した。一般的にモンゴル帝国の首都と言われるが、多くの人が思い描く「首都」をこの都市に重ねることは適切ではないだろう。カラコルム建設後も原則、皇帝の在所は草原の天幕であり、移動する宮廷であり続けた。
 しかし、このカラコルムを中心に道路網と駅伝制(ジャムチ)が整えられ、この都市にはユーラシアの東西から文化と富と情報が集まった。カラコルムは政治拠点としてではなく、商業上の交易拠点、軍事上の補給基地としてモンゴル帝国に大きな意味を持った。
 さらに漢文資料で中書省と呼ばれる文書行政機構もオゴタイの代に整備された。ウイグル人のチンカイ、契丹人の耶律楚材ら多様な人種が集められ、皇帝の命令を文書化し、帝国各地に伝えた。

南宋との開戦

 1235年のクリルタイにより、モンゴル帝国は2つの戦争を決定した。
 1つがロシア・東欧への侵攻であり、もう一つが南宋への侵攻である。
 モンゴル帝国と協力して金を滅ぼした南宋であったが、かつて金に奪われた領土を奪還すべく北還を開始し、次々と都市を占領し始めた。この行いは当然モンゴルにとって許容できるものではない。南宋との戦争は避けられない事態となった。
 南宋侵攻はオゴタイが自身の後継者と考えていた三男・クチュを総司令官として開始された。しかし、開戦早々の1236年2月、クチュは陣中で急逝してしまう。これによりモンゴルの指揮系統は乱れた。戦争はその後も続けられたものの、決定的な戦果を挙げられず、戦線の後退を余儀なくされた。オゴタイによる南宋侵攻は結局、失敗に終わる。
 チンギス・ハンによるモンゴル統一から連戦連勝を続けてきたモンゴル帝国であったが、この戦争で初めてといえる挫折を味わうこととなった。

その時日本では

 同じ頃に日本では何が起きていたのか。
 今回も日本とモンゴルの出来事を一つの年表にまとめると下記のようになります(太字はモンゴルの出来事)。

1228年 九条道家が後堀河天皇の関白に任じられる
1229年 オゴタイ・ハーンが皇帝に即位
1230年 第二次対金戦争の開戦
1232年 三峰山の戦い
    
鎌倉幕府が御成敗式目を制定
1234年 金国滅亡
1235年 対南宋戦争開戦
    
九条道家が後鳥羽上皇と順徳上皇の還京を鎌倉幕府に求める。

日本の出来事については第1〜3回の記事をお読みください。
過去の記事は下記にまとめてあります。


第6回につづきます。


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