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関ケ原(後編)

2021年12月某日、私は関ケ原駅に降り立ちました。

関ケ原行軍コース

今日のテーマは、以下の関ケ原行軍コースを歩くこと。

距離で16キロ、時間は6時間かかる。しかも途中、松尾山登山という難所もある、いささかcrazyなコースです。
いったい誰が、誰からも命じられずに、一円も儲からないこんな酔狂なことをするのか。
人生イチ日本史マニアを自認する私は、こんな酔狂にチャレンジしたのでした。

朝から夕方までかけて、このコースを歩きました。幸い、天気は快晴。これ以上ないハイキング日和でした。
しかし途中で力尽き、やはり松尾山はスキップしてしまいました。松尾山は小早川秀秋の陣地で、ここで西軍を裏切って、一気に大谷吉継陣地まで駆け降りました。あの関ケ原の戦いの最大の切所だけあって、行きたかったのですが、涙を呑んで次回に持ち越しとしました。

大谷吉継の墓

見どころの多い関ケ原ですが、白眉は、大谷吉継とその部下湯淺五助の墓でした。
大谷吉継は、部下の湯淺五助に自分の首を託して自刃しました。業病により顔が崩れていた大谷吉継は、自分の首を敵の目に触れさせるな、と指示をしました。
湯淺五助はその後敵と斬り合いますが、主人の首の在処を敵に正直に伝えて供養を頼んだ上で討たれました。敵ながらに感心した相手は、家康からの詰問にも決して吉継の首の所在を口外せず、合戦後、約束通り「大谷吉継の墓」をこの地に建てたとされています。その墓です。

オカルト否定派の私はめったにこんなことを感じませんが、鬱蒼とした森の中にひそかに立っている墓を見て、400年前の彼らの無念さや口惜しさを感じることができました。

大谷吉継と湯淺五助の墓(関ケ原観光ガイドより)

大谷吉継の最期

墓を見たあと、大谷吉継の陣地に行きました。
そこから、中山道を挟んで、松尾山の小早川秀秋の陣地を見ることができます。「あそこから攻めてきたんだ!」と思いました。その距離感を自分の目で理解し体験しました。

小早川の裏切りを聞いた激戦中の大谷吉継は、「とっさに見えぬ目をあげ、右手の山を仰いだ。」。司馬遼太郎の傑作『関ケ原』の一節です。そのシーンが目に浮かぶような印象的な表現です。(目が見えないのに、いったいどうやっていくさの指揮を執ったんだろう?)

部下が小早川陣に突撃することを希望するのですが、大谷吉継は、「駆けるなら、駆けよ。汝らも知っておるとおり、わしは目が見えぬ、汝らのせっかくの死戦さが見えぬ。駆けるものは、いちいちわが前にきて姓名を名乗れ」と言いました。部下は名を名乗ってから、突撃し、全滅しました。

戦国時代の終わりを告げる、感動的なシーンです。
まるでロウソクが消えるときに最後に輝くような、武士たちの最後の激情を感じられます。

そんな戦国時代の終わりに思いをはせながら、関ケ原を歩き回りました。
歴史マニアとして、関ケ原は最大のテーマです。関ケ原について考えない日はないといっても過言ではありません。
そんな私の好奇心を満足させてくれ、かつ下半身を疲れさせてくれる一日でした。

観光地として

関ケ原は観光地として非常に整備されていて、史跡ごとに細かく解説がつけられています。道標も随所に設置してあり、迷うこともありません。電柱には関ケ原クイズが貼ってあったりして、楽しめます。
時間が合わなくて行きませんでしたが、資料館もかなり巨大なものが作られていました。地域にお金を落とす公共事業なんでしょうね。

しかし、こちらが申し訳なくなるほど、観光客がいません。
紅葉の映える、天気の良い休日です。高尾山や御岳山なら、今ごろ観光客で一杯なのに!と思いました。
観光地として、不当に低く評価されている(undervalue)と思いました。
歴史好き、トレッキング好きにとっては好適な場所です。もっとみんなに行ってほしい。

ランチを摂るレストランを探すのに一苦労しました。
最後に見つけた謎のサンドイッチ店『関ケ原サンド』に入りました。
お腹の空いていた私は、大量に注文して、純朴そうなバイト女子高生を混乱させてしまいました。申し訳ない。
でも美味しかった。

総じて、大変よい思い出になりました。
次は賤ケ岳かな!

※なおトップの写真は関ケ原観光ガイドHPのものです。

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『人の生涯は、ときに小説に似ている。主題がある。』(竜馬がゆく) 私の人生の主題は、自分の能力を世に問い、評価してもらって社会に貢献することです。 本noteは自分の考えをより多くの人に知ってもらうために書いています。 少しでも皆様のご参考になれば幸いです。