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私の考え

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私の思想、人生と向き合うにあたっての姿勢、社会の出来事に対して思ったことなど。
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フォローバック談義。

K. M.の心の中の天使「なあ聞いてくれよ。この間さ――」 K. M.の心の中の大天使「待て待て。なんだ、対話篇でやるのか? だったら『ジョン&ドロシー』でやれよ」 天使「あれとは趣向が違う話なんだよ」 大天使「そうなのか? じゃあ今日は下ネタなしだな。がっかりだ。まあいい、聞いてやるぜ」 天使「黙って聞けよ。俺はよ、もやもやしてんだよ」 大天使「どうした。胸焼けか?」 天使「俺、最近note始めただろ?」 大天使「note? あのナルシストをすし詰めにしたよう

私の「スキ」は重すぎたのか。

岡田斗司夫著『超情報化社会におけるサバイバル術 「いいひと」戦略』を読みました。 SNSの登場によって加速した情報化社会を、心地良く、豊かに生き抜くための戦略(生き方論)が書かれた本著。 ざっくりまとめるとこんな内容です。 *** 歴史を振り返ると、戦国時代のように争いが苛烈な時代には「能力」が評価されやすく、比較的平和な時代には「徳」が評価されやすい。二十世紀後半の日本は(経済的に)前者だったが、現在は後者へとシフトしつつある。 だから「徳」を重視する、つまり「いいひ

このムカつく返答が当たり前の社会になったほうがいいのかもしれない。

先日、漫画喫茶でのことです。 私はよく漫喫でカラオケを楽しむのですが、行きつけの店が JOYSOUND を撤廃するという暴挙に出たため、仕方なく別の店に行きました。 初めての店でしたがカラオケは問題なく楽しめました。 普段通り初恋の記憶が飛ぶほど村下孝蔵を熱唱し、さてひと休み。 無料のソフトクリームでのどちんこを冷やそうとしたときです。 慣れない店ゆえ、ソフトクリームメーカーの置き場がわからなかったのです。 私はフロントに行き、自分より一回りは若い店員に尋ねました。

我々はなぜ働くのか。

私も久々に内田樹氏の著書でも読もうかな、なんて思ったのはオポポ(書くリーマン)さんの以下の記事の影響でした。 記事の中で取り上げられているのは『昭和のエートス』という一冊。内田氏の2008年の著作です。私は未読でした。 結局まだ読んではいないのですが、もうnote書いちゃいます。本当は良くないとわかってはいるのです、ヤフーのトピックスだけ見てニュース語るみたいなものですからね。でもやっちゃいます。 というわけで、オポポさんの三か月も前の記事を踏まえ、十五年前に出版された本

下げる必要のない頭。

昨年末のこと。 コロナで一週間ほど会社を休んでいた同僚が復帰して、皆に頭を下げて回るという一幕がありました。 詫びの言葉だけならまだしも、わざわざ菓子まで用意して配っている様を見て私の胸にはモヤモヤとしたものが……。 これは、はたして下げる必要のある頭でしょうか。 私はそうは思いません。むしろ、このように過剰に卑屈になってしまう人がいるせいで余計に生きづらい世の中が形成されているのではないか、と思ったのです。 人と人が関わる以上、そこには「かけて当然の迷惑」と「かけられて

センスとか言ってるようではチキンはこれほど売れないだろう。

私の仕事は広義の修理業に属する。片田舎の町工場で青い作業着を着て働く、いわゆるブルーカラーというやつである。 前職も印刷工だったので、かれこれ十年以上は似たような世界で働いてきた。 こういう仕事をしていると、昔気質の職人気取り野郎と接する機会は少なくない。特に前職の印刷工場の上司はその手のタイプだった。 本刷り(実際に納品する製品の印刷。つまり本番)を始める前に、色味や加工仕様を上司に再確認してもらう必要があったのだが、やり直しを命じられることがままあった。 ペーペーの時

趣味とは単なる口実なのか。

私の父はもうじき七十になる爺さんで、仕事も引退している。 かつては毎週末に早朝から走りにでかけるほどの自動車好きだったが、数年前から体力の低下がいちじるしいらしく、MT車のクラッチを踏む脚力さえ不足して運転趣味は終わったようだ。 今では日課の散歩とスーパーでの買い物以外、外出することもない。 先日帰省した際、父は「俺もKMみたなおたくになったんだ」と自嘲気味にぼやいていた。 たしかに私はゲーム少年だったし、今もコソコソ小説など書いている時間が大半だからまごうことなきインドア

助け合いという名の嫌がらせ。

本日の記事は嫌がらせです。 気分を悪くする人がいるでしょう。もっとも、私は往々にして読者の気分を害する内容を投稿しているので今更の警告かもしれません。 ただ、本日のテーマである「干渉」は、それ自体が嫌がらせの側面を持つと思っているのでちょうどいいかと。 百聞は一見にしかず、さっそく干渉してみましょう。 先日、女三宮さんの以下の記事を拝読いたしました。興味深かったのでご紹介させていただきます。 特に以下のくだりに震えてしまいました。私とはあまりに違う価値観をお持ちなので…

人生にセックスアピールは不要じゃない?

おんど様が『人生はセックスアピールがすべてじゃない』というタイトルでハメチンだかハミチンだかビーフオアチキンだかいずれにせよ私の小鳥並みの脳みそでは到底味わい尽くせぬ至高の芸術を投稿してくださったがためにピカソの絵を眺めた時と同じ「オメエに理解できんのか?」と詰問されて目を伏せてしまうような劣等感を覚えております日曜の午後。 私にはこんなエッジの立った文章は書けないので、タイトルだけ少々お借りして、本日は「異性にモテないことの利点」について書きます。 さあさあ非モテが叫ぶぜ

はかない興味に水をやらねば!

ゲーム少年だった私は、『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンタジー』を散々プレイしていたのであるが、それらの元祖である〈テーブルトークRPG〉は苦手だった。 知らない人のために説明すると、テーブルトークRPG(以下TRPG)とは、コンピュータを用いない、いわば「ルールのあるごっこ遊び」である。 数人のプレイヤーがそれぞれ架空のキャラクターを演じながらシナリオを進め、その間、プレイヤーはキャラクターの基本的な設定を逸脱しない範囲でどんな行動もとれる。プレイヤーの行動を認める

家族のため? 家族の”せい”にしてるだろ。

近頃、ジュリーこと沢田研二にハマっています。 私は松田聖子ファンでもあるのですが、輝けるスターのオーラは時代を経ても人(私)の心を掴むものです。カッコイイぜ、ジュリー。 ところで、昭和の歌を聞いていると、 「さすがにこの歌詞は現代感覚じゃ聞けないな」 と思うことがあります。 ジュリーで言えば『カサブランカ・ダンディ』とか。 ダメでしょ、普通に。初めて聞いた時は一瞬耳を疑いましたもの。平成生まれの私にはもはや笑いが込み上げるほどです。今のシンガーソングライターからは絶対に出

いつまで馬に乗ってるの?

ある物事が〈当然〉になると、当然が果たされないことに不満を覚えるようになる。更には〈当然〉に求める基準が高くなっていき、その分だけ人の心は狭くなっていく。 近頃、私の心はまた一段狭くなった。 気づいたのはスーパーのレジに並んでいる時だ。目の前の客が財布からちまちま小銭を出しているのを見て私はイラついた。ピリ辛ほどではあるが確かにイラついた。釣銭をキリ良くするために一円玉なぞ数えていやがる、と思った。時間にしたらたかが数秒のもたつきにストレスを感じたのだ。 冷静に考えれば不思

人はなぜ感謝を忘れるのか。

プロゲーマー・梅原大吾氏がラジオで語っていた話にすごく刺激を受けたので、自分なりにまとめ直しました。 テーマはタイトルの通り、「人はなぜ感謝を忘れるのか」です。 梅原氏の話を要約すると以下のような論理になっています。 「感謝」は、される側だけでなく、する側も気持ちいい。 感謝の気持ちは感情の中で最も幸福度が高いものである。 ゆえに感謝し続けることができれば人生は幸福になる。 しかし人間は往々にして感謝を忘れる。なぜか。 まず「感謝」が時間軸上において〈いつ〉起こる

媚びる女談義。

K. M.の心の中の天使: 「なあ、男に媚びる女って好きか」 K. M.の心の中の大天使: 「突然だな。夏の日差しが昔の記憶でも呼び起こしたか」 天使: 「そんなところさ」 大天使: 「ふふふ。嬉しいぞ、久々の談義形式! 他人の悪口を言うか、自分の欠点を開き直るか、このどちらかをやるときしか談義をやらないお前だから! 実にお前らしい腐った文章が読めると思うと嬉しくて仕方ないッ」 天使: 「設定上、俺はお前で、お前は俺でもあるんだがな……。で、どうよ? 男に媚びる女は好