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エッセイ『風の吹くまま』

 二十代半ばの頃、当時勤めていた会社を辞めた私は「あてのない旅」に出た。

 映画『男はつらいよ』シリーズが大好きな私は、幼少期より寅さんに憧れ、「風の吹くまま気の向くまま」に旅がしたいと常々思っていたのである。行き先も期間も決めずに出かけられる機会など一生の内にそう何度もあることではない。定年後の楽しみに旅行を据える人もいるが、体力や感性の活発を踏まえると旅は若い時にしてこそ真価を享受できるもの、とも考えた。無職となって貯えを取り崩すことに心配がなかったと言えば嘘になるが、「ここは引く時じゃない」と私の心は決まった。

 一泊目は奮発してちょっといい日本旅館に泊まった。平日のまっ昼間、温泉につかる若者に年寄りたちの好奇の視線が集まる。そのへんの銭湯じゃないから、彼らは資産に余裕のあるリタイア組だろう。ならば彼らの目に、私は金持ちのプータローに見えただろうか。
 晩夏の壮大な山々を眺めながら、ひと月前まで同僚だった人たちが今もあくせく機械を動かしているのだと思うと黒い喜びが温泉みたいに湧いてきて、私は胸の内で叫んだ。
 ――今この背中には自由の羽が生え、イカロスのように飛び立てるのだ! 

 まったく旅に出て正解だったと感じ入る私であったが、二日目にしてさっそく、思わぬ苦労に気がついた。

 〈風〉が吹かないのである。

 心のままにどこへでも行けるよう、車中泊も考慮したマイカー旅行にしたのだが、いざハンドルを握ってもアクセルを踏み出せない。どこへでも行けるのにどこかへ行きたいという白い希望が湧いてこない。なんならもう家に帰ろうかと頭を過ぎったほどである。

 気づけば私は、タブレットで観光地を検索していた。そう、これは寅さんが呆れる愚行だ。でも仕方なかった。
 そして目的地が決まると、そこで過ごす時間や移動時間を嫌でも逆算してしまう。計画性が出てくると車中泊がかったるく思え、ホテルまで予約する始末となった。

 一旦こうなると、あとは繰り返しである。昼過ぎにはその日の宿をネットで探し、夜には翌日の目的地を決める。風の向きも気分の向きも関係ない。グーグルの検索結果に操られた旅である。もはやこんなもの、旅ですらない。

 私は、豊富な情報や金銭的余裕がいかに人を不自由にするか思い知った。寅さんの旅が自由なのは、その先に何があるか知る手段が乏しいこと(あるいは徹底してそれを知ろうとせずにいられる姿勢)や、下手にリスクを気にした道選びをしない(できない)ことが理由としてあるのだろう。

 情報と金は人を計画的にさせ、計画は人を忙しくさせる。だから情報と金に縛りを入れないと、自由にのんびり、「風の吹くまま気の向くまま」など夢のまた夢だ。もし再び旅へ出る機会があれば、この教訓を生かしたい。

 その時は今度こそ、〈風〉は吹いてくれるだろうか。