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抜粋『人生論ノート』~その7~

終戦直後のベストセラー、三木清氏の『人生論ノート』を読了したので、私の琴線に触れた部分をただ抜粋します。
その1はこちら。


■娯楽について

生活を楽しむことを知らねばならぬ。「生活術」というのはそれ以外のものでない。それは技術であり、徳である。
娯楽というものは生活を楽しむことを知らなくなった人間がその代わりに考え出したものである。それは幸福に対する近代的な代用品である。
娯楽というものは、簡単に定義すると、他の仕方における生活である。この他とは何であるかが問題である。この他とは元来宗教的なものを意味していた。従って人間にとって娯楽は祭としてのみ可能であった。
かような観念が失われたとき、娯楽はただ単に、働いている時間に対する遊んでいる時間、真面目な活動に対する享楽的な活動、つまり「生活」とは別のあるものと考えられるようになった。

著者は、かつての人間にとっての娯楽は宗教的なものであったと言い、本来は娯楽も一つの「生活」にほかならないとします。
宗教的娯楽の実例として神道の祭を挙げていますが、私はキリスト教を連想しました。
食うための労働が生活なら日曜日に教会へ行くのも生活だった、と解釈できるかなと。
私の一番の娯楽は小説を読んだり書いたりすることですが、これは祈るようにやれます。労働が生活なら、余暇に文章を書くことも生活であると胸を張って言えます。良かったです。

娯楽が生活になり、生活が娯楽にならなければならない。
娯楽は単に消費的、享楽的なものでなく、生産的、創造的なものでなければならぬ。単に見ることによって楽しむのでなく、作ることによって楽しむことが大切である。

例えば神道の祭なら、祭を見物するだけでなく自分も神輿を担げということですね。
昔は誰もが祭を「作る」のに参加した。今では祭に参加すると言えば観衆や聴衆の中に加わるという意味である。それは本来、神の地位であったのに。
――と著者は言及していました。

あらゆる小さな事柄に至るまで、工夫と発明が必要である。しかも忘れてならないのは、発明は単に手段の発明に止まらないで、目的の発明でもなければならぬということである。
(――中略――)
真に生活を楽しむには、生活において発明的であること、とりわけ新しい生活意欲を発明することが大切である。


■希望について

希望は運命の如きものである。それはいわば運命というものの符合を逆にしたものである。もし一切が必然であるなら希望というものはあり得ないであろう。しかし一切が偶然であるなら希望というものはまたあり得ないであろう。
人生は運命であるように、人生は希望である。運命的な存在である人間にとって生きていることは希望を持っていることである。

誰でも生きていれば偶然に翻弄されたり必然を思い知ったりした経験があるでしょう。であるならば、誰の人生も運命的であり、そこには必ず希望があるということになります。
ポジティブになれる考え方ですね。

断念することをほんとに知っている者のみがほんとに希望することができる。何物も断念することを欲しない者は真の希望を持つこともできぬ。

何も捨てられない者は何も得ることはできない、といった主旨でしょうか。本章は全体的に分かるようで分からないような……少し難しかったです。
希望とは無限の可能性ではなく、否定したり諦めたりして絞られた道の先にあるもの、と著者は考えたのだと解釈してみました。

■旅について

旅は絶えず過程である。ただ目的地に着くことのみ問題にして、途中を味わうことができない者は、旅の真の面白さを知らぬものといわれるのである。日常の生活において我々はつねに主として到達点を、結果をのみ問題にしている、これが行動とか実践とかいうものの本性である。
人生は旅、とはよくいわれることである。
旅において我々は日常的なものから離れ、そして純粋に観想的になることによって、平生は何か自明のもの、既知のものの如く前提されていた人生に対して新たな感情を持つのである。旅は我々に人生を味わわさせる。

人生は絶えず過程、ですか。

ひとはしばしば解放されることを求めて旅に出る。旅は確かに彼を解放してくれるであろう。けれどもそれによって彼が真に自由になることができると考えるなら、間違いである。解放というのはある物からの自由であり、このような自由は消極的な自由に過ぎない。

消極的な自由があるなら、積極的な自由とは、真の自由とは一体何なのでしょうか。著者はそれについて言及してくれていません。残念。
仕方ないので私なりに考えました。
人間が完全な自由の内に存在できたなら、「解放」も「自由」も、そもそもそのような概念は生じない。自分の思い通りにさせてくれない何かがあって、まず「不自由」が生じるもの。不自由が先に立って、後から自由の概念が生じるわけです。であるなら真の自由とは、「自由」を忘れ、そのことによって「不自由」も忘れ去ることができた状態、と言えるのではないでしょうか。
でも、そんな状態は死んだ後くらいしかないように思うし……わかりませんね。
『看護師の最上の働きは、患者に看護の働きを気づかせないこと』と言ったのはナイチンゲールですが、「真の自由」も似たようなものかもしれません。

人間至る処に青山あり、という。この言葉はやや感傷的な嫌いはあるが、その意義に徹した者であって真に旅を味わうことができるであろう。




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