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【物語論】誰に向けての、何のための物語か。

二十六世観世宗家・観世清和氏は、『能(※)はレクイエム/鎮魂』であると語っていました。(※おそらく〈夢幻能〉を指していると思われます)

飢餓、病、戦乱などによって、【死】が現代より遥かに人々の近くにあった時代。死者を弔い、生者を癒すという狙い・願いを持って能は存在したのです。


現代の物語創作においても、それが誰に向けて書かれ、何を叶えるものなのか、明確にした上で創作に臨んだ方が良い結果を生むのだと思います。

思えば私がかつてゲームクリエイター志望だった時、ゲーム(商品)の企画書には必ず「ターゲット」を明記しろと教わりました。
買わせる相手の見えていない商品がよく売れる期待値は低い。同様に、誰に読ませるか定まっていない物語は、やはり読まれる期待値が低いと考えられます。


とは言え、「誰々に対してコレを実現したいんだ!」という情熱の形は意識高い系のそれに似て、私のように「書くのが楽しい!」とか「物語を空想するのが好き!」といった単純な動機から創作に入った人間には、少々暑苦しくさえあります。

事実、芸術としての文学に傾倒する人は他人うんぬんより自己愛優先で本質は内証的だろうし(偏見)、娯楽としての小説に傾倒する人はテーマがどうのメッセージがどうのというより「面白さ」を職人的に追求しているはず(予想)。
どちらのタイプも、「ターゲットを定めて物語の内容を決める」のとは違うベクトルで動いているように見えます。


でも、だからこそ、それ(ターゲットの有無)こそがプロとアマの差たりうると言えるのではないかでしょうか。
センスとか知性とか、「才能が全てだよキミ」と切って捨てられるよりは、「ターゲットと狙いを考えなさいよキミ」と言われる方がまだ救いがありますし。

ターゲットと狙い――すなわち「誰々に対してコレを実現する」というのは、その人の人生経験を通して発芽するものでしょう。
菊池寛は『小説家たらんとする青年に与う』の中で、

小説を書くには、文章だとか、技巧だとか、そんなものよりも、ある程度に、生活を知るという事と、ある程度に、人生に対する考え、いわゆる人生観というべきものを、きちんと持つということが必要である。
小説を書くということは、紙に向って筆を動かすことではなく、日常生活の中に自分を見ることだ。すなわち、日常生活が小説を書く為の修行なのだ。学生なら学校生活、職工ならその労働、会社員は会社の仕事、各々の生活をすればいい。
小説というものは、或る人生観を持った作家が、世の中の事象に事よせて、自分の人生観を発表したものなのである。

――と述べています。
小説を書くのに受け手(読者)を意識しろ、などとはどこにもありませんが、こうして発芽した芳醇な人生観が自然と幅広いターゲットを捉えることになり、受け手に影響を与えるという結果を生んだと考えられます。

つまり、(あくまで私の解釈ですが)「誰々に対してコレを実現したいんだ!」という暑苦しさを獲得する過程は、平凡な日常生活の中にあるというのです。
自分を育てりゃ小説が良くなるというのなら何より。これは私のような凡人にとって何と救いのある教えでしょう!


ところで、名作と呼ばれる作品は、作者の欲と受け手の欲を高次元で両立して満たしているものと思われます。
その両立は、偶然か、必然か。菊池寛の小説の場合はどうでしょう。
前者のみを信じれば後者の芽はなくなりますが、後者を信じても前者の芽は残りますから、我々が作り手として取るべきスタンスは一つしかありませんね。