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抜粋『人生論ノート』~ラスト~

終戦直後のベストセラー、三木清氏の『人生論ノート』を読了したので、私の琴線に触れた部分をただ抜粋します。
これでラストです。ああ長かった。

その1はこちら。



■個性について

これが最終章になります。
後記によれば、この章の内容は著者が大学卒業直前に書いた小論をそのまま載せたものだそうです。ということは二十代で? 学生で書いたってこと? ……恐ろしいですね。

地球の中心というもののように単に一あって二ないものが個性ではない。一合、二号というように区別される客観的な個別性あるいは他との比較の上での独自性をもっているものが個性であるのではない。個性とは却って無限な存在である。

個性というのは一回的なもの、繰り返さないもののことではないであろうか。しかし私は単に時間的順序によってのみ区別されるメトロノームの相ついで鳴る一つ一つの音を個性と考えることを躊躇する。
(――中略――)
私が世界過程の如何なる時に生をうけるかということは、あたかも音楽の一つの曲の如何なる瞬間にある音が来るかということが偶然でないように、偶然ではないであろう。

眺めるところに個性の理解の道はない。私はただ働くことによって私の何であるかを理解し得るのである。
(――中略――)
私がすべての魂を投げ出して働くとき、私の個々の行為には私の個性の全体が現実的なものとしてつねに表現されているのである。

我々が普段遣う言葉としての「個性」は「その人らしさ」くらいの意味合いだと思いますが、著者は「個性」という語を「AとBが別の人間であることを決定づける要素」というような固い意味合いで用いている印象です。

ところで私は、「その人らしさ」程度の意味合いにおける個性について、佐野洋子氏のエッセイ『覚えていない』の一節から自分なりの定義を見出したことがあります。
佐野洋子氏は自身のかつての結婚生活を振り返り、家事を全く手伝わなかった夫への文句に続けて、以下のように書いていました。


『仕事なんか誰がやめても誰も困らんよ。すぐ代えがきくの、自動車の運転手だって、社長だって、すぐあと誰かがちゃんとやるの、誰も死んだりしないの。でも母ちゃんがストライキ起こしたら子どもは飢え死にするの。茶わん洗わないと永久に同じところでほこりかぶって動かないの』


男性の家事・育児への参加など望むべくもない時代だったせいもあるでしょうけれども。
ただ、言わんとすることは芸能界なんかを見ているとわかる気がします。一見個性的な人が唯一無二のことをやっているようでも、その人がいなくなるとたちまち似たようなことをやる人が出てくる。先鞭を着けるだけでもスゴイこととは思いますが、追随され得ないものなどあるでしょうか。

心理学に、人は誰しも何かしらの「役」を演じているという考え方があるそうです。その役は「上司」かもしれないし、「部下」かもしれないし、妻、夫、親、兄弟、子どもという役もあるでしょう。
その中で真に代えが利かない役割があるとすれば、それはの社会の中での仕事ではなく、生活の中にある役割なのではないでしょうか。
「会社の部長」なら代えが利くけれど、「誰々ちゃんのお母さん」は代えが利きませんよね。
社会が認めてくれるものは、役を演じる巧みさに過ぎません。一方、いつも側にいる人が認めてくれるものこそが、その人の個性だと私は思います。

個性がゆりかごと共に私に贈られた贈り物ではなく、私が戦いをもって獲得しなければならない理念であることを知った。

個性を理解しようと欲する者は無限のこころを知らねばならぬ。無限のこころを知ろうと思う者は愛のこころを知らねばならない。愛とは創造であり、創造とは対象において自己を見出すことである。愛する者は自己において自己を否定して対象において自己を生かすのである。
「一にして一切なる神は己自身にも秘密であった、それ故に神は己を見んがために創造せざるを得なかった。」


自己の個性の理解に透徹し得た人は最も平凡な人間の間においてさえそれぞれの個性を発見することができるのである。かようにして私はここでも個性が与えられたものではなくて獲得されねばならぬものであることを知るのである。私はただ愛することによって他の個性を理解する。

個性の理解は愛によって。私がかつて佐野洋子氏のエッセイを通じて感じ取った「個性」の本質も、あながち的外れではなかったのではないでしょうか。


著者は『人生論ノート』と銘打たれた本著の最後を、以下の新約聖書からの引用で締めくくります。

――なんじ心を尽くし、精神を尽くし、思を尽くして主なる汝の神を愛すべし、これは大にして第一の戒めなり、第二もまたこれにひとし、己の如く汝の隣を愛すべし。


私は特定の宗教を信仰していることもなく、自覚としては限りなく無宗教に近いです。
そんな私からすると、キリスト教的な神の物語は「心の弱った人がすがるための道具」であるとしか思えませんでした。
何かにすがることが悪いことなどとは決して言いませんが、所詮は慰めに過ぎないものと見限っていたのが正直なところです。
ですが今回、本著を読み進め、この最後の一文に辿り着いた時、私の宗教観は変わりました。
宗教の教えとは単なる慰めの域にとどまるものではなく、死後の運命を論じるにとどまるものでもなく、先人たちの深い智徳と洞察が凝縮された、まさに「今」を生きるための指針なのだ、と。



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