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抜粋『人生論ノート』~その6~

終戦直後のベストセラー、三木清氏の『人生論ノート』を読了したので、私の琴線に触れた部分をただ抜粋します。
その1はこちら。


■仮説について

生活は事実である、どこまでも経験的なものである。それに対して思想はつねに仮説的なところがある。
各人はいわば一つの仮説を証明するために生まれている。
(――中略――)
だから人生は実験であると考えられる。仮説なしに実験というものはあり得ない。もとよりそれは、何でも勝手にやってみることではなく、自分がそれを証明するために生まれた固有の仮説を追求することである。

固有の仮説とやらを自分なりに考えてみましたが、特に思いつきませんでした。悔しいです。

常識を思想から区別する最も重要な特徴は、常識には仮説的なところがないということである。

常識ばかりを主張の根拠にする人って本当に浅く感じます。そういう人に限って常識が常識となった経緯や論理を把握していないケースが多いとも感じます。
これは、純粋無垢にママの言うことを聞き入れていた幼児が大人になって、従う相手が「ママ」から「社会」に変わっただけですよね。図体は大人でも思考が自立してないと思います。

常識は既にある信仰である、これに反して思想は信念にならねばならぬ。
すべての思想らしい思想はつねに極端なところをもっている。なぜならそれは仮説の追求であるから。
(――中略――)
しかるに真の思想は行動に移すと生きるか死ぬるかといった性質を持っている。

確かに、先述の『従う相手がママから社会に変わっただけ』の台詞(仮説)を自称常識人にふっかけたとしたら、私は後ろから刺されるかもしれません。

■偽善について

偽善が虚栄と本質的に同じものであることを理解しない者は、偽善に対する反感からと称して自分自身ひとつの虚栄の虜になっている。偽善に対して偽悪という妙な言葉で呼ばれるものがそれである。
偽悪家の特徴は感傷的であるということである。かつて私は偽悪家と称する者で感傷家でないような人間を見たことがない。偽善に反感を感じる彼のモラルもセンチメンタリズムでしかない。偽悪家はとかく自分で想像しているように深い人間ではない。

偽悪家について、著者にはいくつか具体的な顔が浮かんでいたのではないかと思われるほど妙に熱を感じる一節でした。おそらく私の邪推でしょうけれども、こんな著作を生む人でも嫌いな奴の顔を思い浮かべながら文章を書くことがあるのだと思うと親近感が湧いてしまいます。

あらゆる徳が本来自己におけるものであるように、あらゆる悪徳もまた本来自己におけるものである。その自己を忘れて、ただ他の人間、社会をのみ相手に考えるところから偽善者というものが生じる。それだから道徳の社会性というが如きことが力説されるようになって以来、いかに多くの偽善者が生じたであろうか。

法廷ドラマ『リーガル・ハイ』を思い出しました。
第二期に登場する羽生晴樹という登場人物が、偽善者であったと言えます。
彼は「皆が幸せになれる社会を実現する」という理念を持ちながら、その裏には「民衆は愚かなので自らが導く」という独善的な考えがありました。
最終話で主人公の古美門研介に、「皆を幸せにしたい、Win-Winにしたい、だがそれらは全て所詮君個人の欲望だ」とバッサリ切り捨てられていたのが印象的です。

極めて偽善的な言い回しで(独身の)私の鼻につくものがあります。「子どもを産み育てるのは社会貢献になる」というアレです。実際には「子どもを産み育てない人は社会貢献していない」という使われ方をすることが多いでしょうか。
これって正に著者のいう『その自己を忘れて、ただ他の人間、社会をのみ相手に考える』の状態ですよね。一人でもいますか、今の日本に。社会のために結婚して、社会のために子づくりしたという人が。いませんよね。
結婚も子づくりも、その選択は所詮男性器と女性器の欲望(そうでなければ利害の一致)によるもの、つまり「自己」のものに過ぎないのに、そのことを棚に上げて、少子化という時流をいいことにやたら誇ったり見下したり、そういう連中を見ると辟易します。
私も偽悪家でしょうか。

偽善者が恐ろしいのは、彼が偽善的であるためであるというよりも、彼が意識的な人間であるためである。しかし彼が意識しているのは自己でなく、虚無でもなく、ただ他の人間、社会というものである。
絶えず他の人を相手に意識している偽善者が阿諛 あゆ的(おべっかをつかうタイプ)でないことは稀である。偽善が他の人を破滅させるのは、偽善そのものによってよりも、そのうちに含まれる阿諛によってである。偽善者とそうでない者との区別は、阿諛的であるかどうかにあるということができるであろう。ひとにおもねることは間違ったことを言うよりも遥かに悪い。

他人や社会におもねることが第一になってしまっているように見えるという点で、常識人と偽善者は同質だと思います。
誰しも少なからず常識人であり偽善者だし、これらが処世術として役に立つのは認めますけれども。



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