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【創作論】ロジックか、エモーションか。

私、ここ一二か月でいくつかエッセイを投稿したのですが、思いの外スキが付きやすくて喜んでいます。

クリエイターページの紹介文に
《私の人となりが見えてくるnoteを目指します》
と書いているくらいですから、noteを始めた時から自分の主張や考えを書く意志はありました。

そして実際に書いたものが以下の記事です。

いずれも、私がエッセイと銘打った記事を投稿し始める前のもので、本記事の投稿日時点でスキはひとつもありません。

ほかにもスキがゼロの記事はありますが、ドラマ感想や創作論ですので、《私の人となりが見えてくるnote》の趣旨から言えばオマケみたいなものですから構いません。

一方この二つの記事はオマケとは言えません。本命です。本命で空ぶっているのですから、私はひとり赤面し、それから悔しい気持ちでいっぱいになりました。
記事を消してしまうことも頭を過ぎりましたが、一度出したものを大した訳もなく引っ込めたくはない。
これはこれとして、また同じテーマでリベンジ記事を書いてやろうと密かに決心したのでした。


とは言え、どうしたものか。書き方を変えなければと思いつつ、その手立てがいまいち見えてきません。
そんなおり、Kaori氏が以下の記事を投稿されました。


勝手ながら一部抜粋させていただきます。
ライターのKaori氏が、かつて取材先の社長に言われた言葉だそうです。

「事実」というのは聞いたこと、思ったことそのままを出した言葉。あなたはもっと「虚構」を書けるようにならないとあかんね。「虚構」というのは、決して「嘘」ではないからね。「虚構」にはちゃんと「真実」があるから。その「真実」を自分の中で「虚構」に変えて言葉にすることが、プロのライターの仕事じゃないのかな。あなたの書いている記事に「嘘」はないけど、これは「事実」でしかない。「事実」ではない「真実」を書くことが「虚構」で、そこには物語性がある。あなたは「虚構」を書けるライターにならんとあかんよ。


Kaori氏はこれに衝撃を受けたと言います。

私も同様に衝撃を受けました。
これはまさに、例の二つの記事にスキがつかない理由の本質ではないか、と。

例の記事は、考えこそきちんと書いています。それを下支えするために他人のyoutube動画や『学問のすすめ』の引用までしています。

が、流れに乏しい。読み返せば文章が淡白で冷たすぎると自分でも思います。
主張や考えには、それに関心を抱くきっかけや、それを形成した体験があるはずなのに、私はほとんどそこに触れていなかった。
誰の中にも流れている時間の大河。その流れの一瞬間を切り取っても「物語」にはなりません。
考えや主張という一点だけを書いて満足し、私はその前後を書きませんでした。

元々、こんな記事を書くほど物語主義者であったはずなのに。

大事なことは、それに気づくことより、それを忘れないでいることのほうが遥かに難しい。
「人は物語が好き」の内容はnoteを始める以前から私の頭の中にあって、しかも私にとってはかなり重要な考えなのですが、忘れていたのです。


反省して書き直したのが以下のエッセイでした。

文の趣旨は以前の記事と大差ないはずです。
それでも、今度はスキを頂けた。リベンジはまずまずの成功といったところです。


今にして思うと、以前の記事はコラムに近かったと思います。
説得力のある他人の言説を後ろ盾にすることは客観性の演出になるし、筋道立てて書こうともしていました。いかにもコラム的な発想です。

しかし、それは物語的ではないということでもあります。
秀逸なコラムの持つスマートな論理(ロジック)は刺激的だし、よく書けたコラムはエンタメとしての魅力さえ持ち得るでしょう。
ただ、そこに感情(エモーション)が交じらなければ、読者の共感には至らない。
エモーションが交じってこそ「物語」なのです。


無論、読者の中には、『いやいや整ったロジックだけでも感銘を受け得るよ』という方もいるでしょう。
そんな方は、感情のような不確実なものを排し、事実(客観性)と論理に基づいてモノを考える人と言えます。
物語的なものを好む読者とは脳の使っている領域が異なるに違いありません。


客観・論理的か、主観・物語的か。ロジックか、エモーションか。
これら二つに優劣はありません。
が、「より多くの読者」を求めて文章を書くなら、どちらが多数派なのかは重大な問題になります。

そして、私はエモーション派こそ多数派であると考えています。

理由は単純です。
客観性だの論理性だのが広く一般に重要視され始めたのはおそらく、近代科学の父と呼ばれるガリレオ・ガリレイの登場以降であって、せいぜい四百年程度の歴史しかないからです。
それまではほとんどの人が世界を「物語」によって理解していました。
神話や宗教の存在がその証拠です。
有史以前から形成され染みついたであろうモノの考え方が、いかに現代人が科学技術によって発展した社会を生きようとも、そう易々と塗り替わるはずがない。
事実、神話や宗教は絶滅していないし、新たな物語も日々生まれ続けています。


科学の論理を支えるのは客観的事実。対して物語の筋を支えるのは主観であり感情です。
物語の筋だけ抜き出したものが「あらすじ」ですが、あらすじだけで捧腹絶倒、飲泣呑声する人は普通いません。あらすじは感情というディテールを無視するからです。
神(最古の物語)は細部(ディテール)に宿る、とはよく言ったものです。


科学的な思考が文明を発達させたのは確かでしょう。
ゆえに客観・論理的にモノを考えることが「正しい」「優れている」と思い込む人も少なくないようです。
しかし、実際どうですか。社会を見回せば。自分自身を見直せば。
論理で人が動きますか? 感情を排して人を信じますか?
人に伝え、訴える時、感情が占める割合はまだまだ絶大でしょう。


「論理的な話が理解できないなら受け手が愚かである」なんて考え方こそ思考の浅薄を露呈していると思います。そんな寝言を言っていて解決できる問題ばかりでもないでしょうし。
ただしこれは、主観・物語的に文章を書いていても起こり得る勘違いではあります。「私の作品が理解できないのは読者が悪い」とほざいている状態がまさにそれです。孤高の芸術家気取りならお好きにどうぞ、しかし広く娯楽として文芸をやるにあたっては「手抜き」でしかない考え方です。
エモーションを意識して書くというのは、自分のエモーションに着目するだけでなく、その先にある読者のエモーションこそが肝です。それを忘れては、その物語は拙いコラムほどの求心力も持ち得ないでしょう。


神話や宗教は世界を大きく動かしてきました。
現代人が生み出す物語にも、同じだけの可能性がきっとあります。
私は世界を変えるとまでは言いませんが、自分の記事を読んでくれた読者の心くらいは突き動かしたいと思います。


私は、エモーション派です。