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私の「スキ」は重すぎたのか。

「いいひとか……その言い方は僕はあまり好きじゃないんだ。だって、それって……自分にとって都合のいいひとのことをそう呼んでいるだけのような気がするから」

『進撃の巨人』アルミン・アルレルト


岡田斗司夫著『超情報化社会におけるサバイバル術 「いいひと」戦略』を読みました。

SNSの登場によって加速した情報化社会を、心地良く、豊かに生き抜くための戦略(生き方論)が書かれた本著。
ざっくりまとめるとこんな内容です。

***

歴史を振り返ると、戦国時代のように争いが苛烈な時代には「能力」が評価されやすく、比較的平和な時代には「徳」が評価されやすい。二十世紀後半の日本は(経済的に)前者だったが、現在は後者へとシフトしつつある。
だから「徳」を重視する、つまり「いいひと」戦略を取るべきだ。
SNSをはじめ各種ウェブサービスに実装される相互評価システム、これが各人の「徳」を数値化し、またこれらは「徳」を実益に変換するツールとしても機能している。
現代の経済事情とテクノロジーが影響し合い、「いいひと」でいることの有効性は今後益々増大していく――。

***

と、このように、本著は倫理的観点からだけでなく、経済的・社会的観点と併せて「いいひと」戦略を推奨しているようです。
したがって、その実践方法においてもSNSの活用が前提として書かれています。


ずばり、SNSにおける「いいひと」戦略の第一歩、それは――

フォローする/フォロー返しする

はい。わたくし、一歩目からして当てはまりませんでした。
著者は私のような人間の考えを見事に見透かしてきます。

おそらく今までは、あなたもツイートの内容――面白いのか、退屈なのか、タメになるのか、ならないのか――そんな基準でフォローするかどうかの判断をしてきたと思います。


うう、図星すぎるッッッ!!!

しかし著者は言います。そんな基準はとっとと捨てて、シンプルに「あなたに興味があります」という意思表示のためにフォローしろ、と。

私は言葉の意味に素直過ぎたのかもしれません。
「いいね」とも「スキ」とも思っていないのにボタンを押すだなんて、正直考えたことすらなかった。


そういえば昔、女たらしの知人もこんなことを言っていました。
「抱きたいなら褒めるのみ。カワイイとかキレイとか、嘘でもなんでもいいから真顔で言い続けるんだ」


あの時は、「なんて悪い奴だ、いやこのクソ野郎が!」と思いましたが……なるほど、相手の女性からしたらこのクソ野郎は「いいひと」に見えたのかもしれません。それどころか、彼を非難する私のほうこそクソ野郎なのでしょう。

いいひと戦略における相互フォローはなかなかに鉄壁です。


本著では更に、フォローやスキの使い方を考えさせられるエピソードが続きます。
漫画家のカラスヤサトシ氏が自分へのツイートに熱心に返信することについて、その理由を語った件です。

「だって、道で挨拶されたら挨拶し返すじゃないですか」

挨拶……アイサツ?

振り返ってみましょう。
noteにおける「スキ」を字義通り「好き」と解釈してきた私は、例えば――


私「面白い記事だ、スキです!」

相手「私もスキです!」

私「この記事も面白い、スキです!」

相手「私もスキです!」

私「……」

相手「……」

私(なんだこいつロボットなのか? フォロー外そう)


――こんなふうなことを何度もやった覚えがあります。
しかし、これがもし、「スキ」を「挨拶」とみなす相手だった場合――


私「こんにちは!」

相手「こんにちは!」

私「こんにちは!」

相手「こんにちは!」

私「……」

相手「……」

私(なんだこいつロボットなのか? フォロー外そう)

相手(あ、フォロー外された。なんだこいつイカれてんのか?


――こうなるわけです。
私、イカれてるじゃん。



とはいえ、著者はこうも書いています。

「いいひと」は信頼できるけど、面白みに欠けるという側面もあります。
(――中略――)
有名人ではない私たちが生き延びるためには、「いいひと」であることで充分ですが、さらにその先に行こうとしたら、もう1つキャラクターを足す必要があります。

〈その先〉というのは、評価をより多くの人に求め、広め、実益に変換しやすくする立場を指しています。端的に言えば有名人とかインフルエンサーのことです。

著者の言うことはその通りでしょう。憧れの対象になるとか、他者に影響を与えるとかは、単なる「いいひと」には到底不可能でしょうから。

実際、例えば私は本著を面白いと感じましたが、それはこの本の存在自体が「いいひと」戦略の外側にあるからにほかなりません。

著者は「いいひと」戦略の前提としてまず「イヤな人」をやめることが重要と指摘し、イヤな人の条件として「改善点を見つけて提案する」を挙げています。
一応「共感が先にあれば提案もOK」と逃げ道も併記されていますが、この「提案する人」=「イヤな人」の式はそのまま本著にも当てはまるわけです。
なぜなら、いいひと戦略なるものについて本を書くことは「提案」以外の何物でもありませんから。

それでも、お節介で苛烈、だが圧倒的――そうした「嫌み」があるからこそ人は憧れるし、影響されるし、面白いと感じるものではありませんか。


本を書くことのみならず、あらゆる自己主張・表現と呼ばれるものは大抵誰かを傷つけます。無論note記事も同じです。

けれど、誰も傷つけない表現なんてものは、誰にとっても意味のない表現に過ぎません。

栄養のないジャンクフードを好んで食べる人種とお付き合いしたいならともかく、まとまな口と舌を持つ人間と繋がりたいのなら、そこを目指すべきとは私は思いません。



冒頭ではアルミンの台詞――いいひとという言葉は自分にとって都合のいいひとをそう呼んでいるだけ――を引用しました。

これは多くの人にとって共感できる台詞かと思います。
が、私は「いいひと」を「都合のいいひと」とさえ思いません。


「いいひと」は大方、「どうでもいいひと」ですから。


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