〈他者〉との出会いと孤独

はじめに
誤解しないでいただきたいが、これから私が言う「孤独」とは、寂しさのことではない。両者は全く別物である。世界は、この〈私〉から開かれたものだ。そして、誰もが皆 その“開け”を持っているのだが、私は、〈私〉以外の見地に立つことはできない。それゆえの「孤独」である。

中2の頃、オーストラリア人を好きになったことをきっかけに、「誰とも現在を共有できない」ことに気付いてショックを受けた。
繋がれない寂しさが生まれるのは、距離があるからではない。同じ家に住んでいる家族であっても、私と同じ“今”を、“これ”を共有することはできないのだ。
周りの全ての人間が、再放送の映像になるような感覚。いくら手を伸ばしても、生身の他者には接触不可能である。たとえ光の速さを手に入れたとしても。
私の目の前に〈他者〉が立ち現れたのは、この時ではなかったか。
それは、母親と引き離されたり、友達に裏切られたりした時の、自分自身を切り刻まれるような孤独感(寂しさ)とは別物だった。もっと、遥かに救いようのない、どうしようもなさだった。
その後、私はユング心理学にのめり込んでいく。集合的無意識で繋がりあっているということに、救いを求めていたのかもしれない。(今は全くであるが。)
夢野久作『ルルとミミ』初読の感動を忘れられない。運命に翻弄され、滅びゆく悲しい美しさ。この、静かな諦め。そして前世にまで遡るような懐かしさ。
これは何なのだろう……
しかし生きるということは、それを振り切っていくことだ。きっとそれは菩薩の道だ。
あなたとは、私の世界の向こう側にいる存在。もう一つの別の世界。そんな孤独。
そしてそれは、自分の存在の危うさという問題も孕んでいる。これには、幼少期から続く離人感も影響しているかもしれない。
私の詩作は、この孤独と実存に向き合うものだ。
自然とそうなっていた。

共感は求めない。
異論は認めない。
これは私だけの、大切な感覚なのである。
そうとしか言いようのないものなのである。

最近少し、世間(そんなものはない、もしくは自分の中にある)に求められるものを気にしすぎていた。


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