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大人になって観返す『ミュウツーの逆襲』:反出生主義と歴史改変

大人も感動する子ども向けアニメ映画

 「日本文化」と言えば「アニメ」と「漫画」と言えるくらいに、「アニメ」はポピュラリティーを獲得し、「クールジャパン」だのなんだのでは筆頭格に挙げられますが、かつては「子どものもの」「大きくなったら卒業するもの」という一般理解がありました。

 だからこそ、「アニメを見続けている人」=「オタク」=「幼稚」というような図式で見られることがあったわけですが、今やそんな考えをする人は少数派だと思います。

 時代とともに、アニメの数は増え、対象年齢も幅広くなり、作品ごとに多様化していったからこそでもあります。その一方で、今でも「子ども向け」のアニメは存在し、その代表格が『ポケットモンスター』だと思います(もちろん、数多くの20代以上の大人も楽しんでいますが)。

 私は初代アニメ放送開始時には4歳半と、かなり「ポケモン世代」と言えます。その後、一時期は日本に住んでいなかったこともあり、あまり熱心に観ていませんでしたが、劇場版第一作『ミュウツーの逆襲』は公開から少し遅れてビデオで鑑賞し、とても感動したので、強く記憶に残っていました。

 この『ミュウツーの逆襲』は、日本映画の「アメリカでの興行ランキング」で1位になるなど、たいへん評価も高い作品です。『クレヨンしんちゃん モーレツ!オトナ帝国の逆襲』がそうであるように、いわゆる「大人も楽しめる」子どもアニメ映画だとも言われます。

 ひょんなことから、3DCGリメイク作である『ミュウツーの逆襲 Revolution』を観たので、感想を書きたいと思います。

 端的な感想だけ言うと、おっさんになった私には、「あれっ、思ったより面白くないな?」というのが正直なところでした。『オトナ帝国の逆襲』が何度観ても、いくつになって観返しても感動するのに対し、こちらはやっぱり「子ども向け」かなと思いました(元作品への思い入れの差もあるかもしれません。もちろん「子ども向け」自体は悪くないです)。

 すごくテーマが攻めていますし、演出も決まっているのですが、いろいろと気になってしまいました。『Revolution』のほうだったせいもあるかもしれません。勘違いでなければ、もう少しミュウツーのバックグラウンドが描かれていた記憶もあるのですが……(本編ではなく、スペシャル版とかだったのかも?)。

「反出生主義」という重いテーマ

 この作品のテーマの一つは、ここ数年で話題(?)らしい「反出生主義」です(こういう考え自体は、昔からありそうだし、普遍性があるし、誰しもが中学生前後に感じそうなことだし、なぜ「話題」なのかは私は理解してません)。

 ミュウツーは、人工生命体です。幻のポケモン・ミュウの細胞をもとに「より強い、最強のポケモン」として科学者に生み出されました。その後、ロケット団(悪の秘密結社)のボス・サカキに生物兵器として利用されます。しかし、「自分の存在意義」を問い続けるミュウツーは、ロケット団のコントロールから離れ、一人「人間への逆襲」を誓います。

私は誰だ。ここはどこだ。私はなんのために生まれてきたんだ! 私は人間に造られた。だが、人間でもない! 造られたポケモンの私は、ポケモンですらない!

誰が生めと頼んだ!? 誰が作ってくれと願った!? 私は私を生んだすべてを恨む。だからこれは、攻撃でもなく、宣戦布告でもなく、私を生み出したお前たちへの「逆襲」だ!

 このミュウツーが独白するシーンは、実にカッコいいですね。タイトルの意味とリンクし、痺れますな。声優が市村正親だと初めて知りました。

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 主人公・サトシの年齢設定が10歳。少なくとも当時のメイン視聴者がそれより幼いちびっこたちだったことを考えると、かなり重く、踏み込んだテーマです。14歳向けくらいな感じがします。

オリジナルとコピー、「アイデンティティ」をめぐる戦い

 ミュウツーはサトシ一行をはじめ、有望なトレーナーを数人集めます。親を持たず、ミュウの「コピー」であり、人工的に生み出された存在であるミュウツーのアイデンティティは、「最強」であることです。
 ミュウツーは、その存在証明のために、トレーナーたちに勝つことを目的としています(おそらく)。
 そして、ミュウツーはオリジナルのボールを駆使し、トレーナーたちのポケモンを捕獲、コピーを生み出します。

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 このシーンは、幼心にとても怖い場面でしたね。かなりの子どもにプチ・トラウマを植え付けたかと思います。指一本で念波を出して攻撃を防ぐミュウツー、その圧倒的強さの描写は今観てもとても素晴らしいです。

 そして、互いにど突き合うポケモンとコピーたち。

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 このシーンはめちゃくちゃ記憶に残っていて、たぶん1~2回しか観たことがなかったのに、これまでにたびたび私は、モノマネのネタにしてきました。

「なんなのこの戦い……」
「本物だってコピーだって今は生きている。みんな生き物」
「造られたといっても、この世に生きている生き物。本物とコピー、でも同じ生き物同士、勝ち負けがあるわけ?」

 カスミやタケシは残酷な戦いを目の前に、終わることを願いながら、ただ呆然と見ることしかできない。

 しかし、まったく同じ存在であるオリジナルとコピーのど突き合いは、終わることがありません。ただただ傷つけ合うだけ。上空では、ミュウとミュウツーの戦いが。そして、二者が波動砲を繰り出すと、止めに入ったサトシに直撃し、サトシは石化してしまいます。

 すぐさま駆け寄るピカチュウ。呼び覚ますため、電気ショックをしますが、サトシは一向に動かない。こぼれ出るピカチュウの涙……。

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 すると奇跡が起こり、サトシが復活します。それを見て、過ちに気づいたミュウツーは、戦うことをやめます。

 そう、争いをやめさせるために身を呈したサトシ、サトシを想って涙を流したピカチュウ、その姿に「強さ」とは別の「かけがえなさ」という価値を知るのです。
 生命の「かけがえのなさ」は、互いへの思いやりから生まれる。オリジナルであろうと、たとえコピーであろうと、他者からの「思いやり」を受けられれば、「愛情」が注がれれば、その生命は「かけがえのない」存在となれるのです(私の解釈がたぶんに含まれています)。

 そして、自ら生み出したコピーたちを引き連れ、上空へと旅立っていくミュウツー。これからも「生きていく」ことを誓いながら――。

「みんな、どこへ行くの?」
「我々は生まれた、生きている、生き続ける、この世界のどこかで。」

おっさんになってしまった悲しみ……気になった点

 とまあ、こういう感じのストーリーです。こう書くと、実に素晴らしい映画だなと思いますし、実際にそうなのですが、やはりおっさんになってしまった私には、幼少期にはただただ感動できた映画に対し、けっこういろいろなことが気になってしまい、「想い出として美化していたかもな」という感慨も覚えてしまいました。

 以下、気になった点を。

【作品の性質として仕方ないが、大事な点】
・ミュウツーは、「人間への逆襲」を誓ったはずなのに、なぜ「人間」ではなく、「ポケモン」と戦うのか?(人を殺したりは作品上できないだろうが……)⇒手持ちのポケモンを傷つける=トレーナーを傷つける、ということになるのか。
・なぜミュウツーは、「最強であること」をアイデンティティにしているのか?(製造意図そのままを内面化しているのはOK?)⇒まあ、自暴自棄な感じでしょうか。
・コピーを生み出したミュウツーに倫理的な責任はないのか?(人にやられて激おこなのに、自分もやっていいのか?)⇒最後、引き連れていくのはそこも含めてか。
・サトシがミュウツーに怒り、オリジナルを引き連れてバトルを挑むのは?(ミュウツーに同情的なキャラクターが一人もいない)⇒とにもかくにもケンカは売られているから、受けないわけにもいかないのか。

 このあたりは、「ポケットモンスター」という作品に内在している矛盾と密接にリンクしている気がします。基本的に、作品としての華は「ポケモンバトル」にあるので、描かないわけにはいかないのですが、人間は安全圏から指示を出して、ポケモン同士を戦わせることになります。
 そのため、サトシをはじめ、ポケモンに愛情を持って大切にしているトレーナーは善玉、愛情なく利用するだけのトレーナーは悪玉、として描かれるわけですが、その差は実はけっこう微妙なところ……。

 この映画は、ミュウツーという悲しいバックグラウンドを持つキャラクターを悪玉に設定しているため、その内在的矛盾が顕在化して見えてしまいました。勧善懲悪ではなく、悪玉にも同情路線の作品では、こうした善玉に同意しきれない事態は、しばしば起こることですが……。

【作劇上で少し気になった、茶々入れ的な点】
・ミュウツーは「最強のポケモン」として人工的に生み出され、コピーもその路線にあるはず(ミュウツーを生んだ科学者たちが造ったマシーンで複製する)。であれば、戦闘能力として、オリジナル=コピーではなく、コピー>オリジナルとなるのでは? (実際、序盤はそのように展開していた)
・ミュウツーに洗脳されていた女医さん、役割としてあまり必要ない気も? (テレビアニメを観ている子には、恐怖心を与えられるのかな)
・あまりにも久しぶりにアニメを観て、キャラクター性を覚えていないせいもあるが、サトシはピカチュウを中心に、「自分のポケモン可愛さ」しかない人物に映った(まあ、10歳だから仕方ない?)。
・ミュウツーは結局、何がしたかったのかが、わかるようでわからないような? トレーナーとして最強になりたい? ポケモンとして最強になりたい? コピーとして生み出されたポケモンのほうが、オリジナルより強いと証明したい? (純粋に街に出て、人間社会への破壊活動をしていたら、すんなり理解できるのだが)

 とまあ、いろいろと書きましたが、基本的に私がおっさんになってしまったから気になったことで、子どもならサトシ目線で見られるので、「ミュウツー怖い!」⇒「ミュウツー強い!」⇒「どうなるんだ!?」⇒「サトシとピカチュウの愛に涙」⇒「ミュウツーが改心した!」⇒「面白かった~!」となりつつ、重いテーマが心に残ったのだと思います。実際、6~7歳くらいで観た私も、記憶に残っていましたし。

「歴史改変」の理由

 最後に、一つだけ。この映画を観返して最も気になったのが、最後の最後、ミュウツーが「すべての関係者の記憶を消し、時間を戻す」という歴史改変をすることです。

 ミュウツーは旅発つ前に、ミュウに向かって、こんなことを言います。

たしかに、お前も私も、すでに存在しているポケモン同士だ。この出来事は誰も知らないほうがいいのかもしれない。忘れたほうがいいのかもしれない。

 そして、歴史改変をするのですが、その意図がよくわかりませんでした。反出生主義的な「人間への逆襲の徒」から一転して、「生きていく」ことを誓ったため、人から「忘れてもらう」必要がミュウツーにあったということでしょうか。

 となると、どこから歴史改変をしているのでしょうか。「生きていく」のであれば、当然に誕生前まで戻してはいないはずです。サカキに利用されていた時期まで戻しているとも思えません。劇中の描写を見ると、ミュウツーと出会う前の波止場まで戻しつつ、そこにトレーナーたちが来た理由(ミュウツーが存在は隠して呼びつけた)は忘れるように操作しているようです(女医さんは、誘拐される前?)。

 なぜ、この夜に出会った人物だけ、記憶を消したかったのでしょう。

 サトシはじめ、この夜を経験したキャラクターたちを思って、となると、あまり「忘れたほうがいい」理由がよくわかりません(リアルだと10歳にはトラウマ経験ではありますが)。

 このあたりが最大の謎です。ぶっちゃけ「大団円」感が出るから、というのが実際でしょうが、意味深なセリフでもあり、かなり気になりました。

 私はSFのタイムリープものなど、作品それ自体が歴史改変モノである作品は別として、基本的に歴史改変展開はあまり好きではないです(ご都合主義的だし、矛盾が生じまくるし、夢落ちに近い虚しさを感じる)。

 それはただの好みでもあるのですが、本作のテーマは「反出生主義」。そこには、生命や人生の「不可逆性」が深く関わると思います。いわば”反「反出生主義」”、「生まれてきてしまった……だが、生きよう」というミュウツーの改心が、作品としての最重要なメッセージなのですから、この「歴史改変」は違和感を覚えます。

 この点が、幼少期にはまったく気にしなかった、でも大人になって観返して初めて感じた最大の点でした。このことが気になって、こうしてnoteに感想を書いた感じもあります。

 何か、もっともな理由があれば、ぜひ知りたいなと思います。もしかしたら、観返してちょっとガッカリしたのは、このラストのせいが大きいかもしれません。

 ちなみに、観返したことで、記憶には残ってなかったが、すごく良かったシーンもありました。ニャースがコピー・ニャースと話すシーンです。もともとニャースは幼少のころも、コミカルで、悪役なのに愛嬌のある良い子で、可愛くて好きでしたが、そのことすら忘れていました。

 シリアスな空気の中で、ちょっとほっこりさせることを狙ったシーンだとも思いますが、むしろおっさんになって観ると、妙に滋味があって良いなと感じました。

今夜の月は丸いだろうって?
そうだニャー。きっと満月だろニャー。
おみゃーこんな時にお月さまのことなんて、風流で、哲学してるニャー。 

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 年齢を感じるので、哀愁も漂いますが、昔好きだった作品を観返してみるのも、良いものです。(おわり)




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