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アラブとして初のイスラエルとの国交樹立を果たしたサダト|気になる中東

前回はナセル大統領の時代について概説した。

ナセルの時代は、私もまだ生まれていないか小さすぎて、昔、歴史の授業で習ったような内容をなぞりながら書いた。

今回ご紹介するサダト大統領の時代は1970年代、私もすでに小学生~中・高校生で、記憶に残っていることも多々ある。また82年に読売新聞社より刊行された「サダト・最後の回想録」も手元にあり、参考にしたい。これはサダトが率いる国民民主党の機関紙「マーユー」(「5月」の意味)に、自らが体験してきた歴史的な出来事や心情を書き残す連載のために、執筆もしくは録音した内容をまとめた本だそうだ。

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ソ連との決別

サダトは、ナセル大統領とともに自由将校団にも所属し、1952年のクーデターでも中心人物の一人だった。ナセル政権でも、人民議会議長や副大統領を務めた。

ナセルとは19歳のときからの親友だそうで、回想録の中でも、互いに主義や政治信条を超えた友情で支えあってきたことが記されている。

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1970年にナセルが急死した後、副大統領だったサダトが大統領を後継。サダトは、それまで軍事面を含め支援を受けていたソ連との関係を見直すとともに、社会主義的な政策路線を大きく転換した。ソ連の軍事顧問団も追放した。これはナセル路線の否定というより、サダトがもともとソ連の最高指導者に強い不信感を持っていたからだと思われる。回想録の第1章は「粗野な男、フルシチョフ」から始まる。ここでは、ソ連第一書記のフルシチョフが政敵を秘密会議の場で首を絞めて殺したことを明かし、エジプトでサダトが同じことをする際にも「この方法は応用できますな」と言ったというエピソードが書かれている。サダトはこうしたソ連指導者の謀略性、暴虐性を嫌っていたようだ。またソ連がエジプトを馬鹿にし、事あるごとに内政に口出ししてくることにも我慢がならなかったようだ。回想録の別の章では、ソ連は、第二次中東戦争の成果で「アラブの英雄」として名を上げたナセルの威信を貶めようと、様々な画策をめぐらせたことも述べている。

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第四次中東戦争

サダト時代の最大のハイライトと言えるのが、第四次中東戦争(1973)だ。

アラブ~イスラエル間の第一次~第三次の中東戦争は、いずれもイスラエル側から口火を切ったのに対し、第四次は初めてアラブ側から仕掛けた戦争だ。

サダトはシリアと連携し、密かに戦力強化を進めていた。一方イスラエルは第三次中東戦争(1967)の圧倒的勝利もあり、アラブ側の戦闘力を過小評価していた。

エジプトとシリアは、イスラエルで神聖な日とされる「ヨム・キプール」(贖罪の日)の10月6日を狙って、戦闘を開始。エジプト軍がシナイ半島、シリア軍がゴラン高原を攻撃する二正面作戦で奇襲をかけ、4度目の戦争にして初めてイスラエルを慌てさせる戦況に追い込んだ。イスラエルはこの戦争を「ヨム・キプール戦争」と呼び、歴史上の屈辱的な出来事と位置付けているようだ。米国における「真珠湾」のようなものと言えるかもしれない。

しかしその後イスラエルが反撃に転じ、アラブ側は徐々に追い詰められた。このとき発動されたのが「石油戦略」である。すなわちOAPEC(アラブ石油輸出国機構)等の産油国がアメリカを始めとするアラブ非友好国への石油供給量削減と世界的な原油価格の引き上げを決定し、世界経済に大混乱を巻き起こした。「オイルショック」である。これにより国際的な停戦気運が高まり、アラブ側に有利な状況のもとで停戦が実現した。

オイルショックは私が小学生のときで、トイレットペーパーの買い占めなどの社会現象とともに、1960年代以来続いてきた高度経済成長に終止符を打つという、日本経済にとっても大きなインパクトをもたらした。

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キャンプ・デービット合意とイスラエルとの和平協定

第四次中東戦争に政治的勝利を得たものの、サダトはイスラエルとこれ以上軍事的対立を続けることへの限界を悟った。回想録にも「中東現代史を見れば明らかだが、相次ぐ戦争はエジプトに人命の犠牲、破壊、開発の遅れなど、多くの災厄をもたらしてきた」との記述がある。サダトは、米国およびイスラエルとの和平を模索し始める。77年にはアラブ諸国首脳として初めてイスラエルを訪問。

そして翌78年には、米国大統領ジミー・カーターの仲介により、米大統領の保養地であるキャンプ・デービッド山荘にサダトとイスラエル首相メナヘム・ベギンが招かれ、和平合意、いわゆる「キャンプ・デービッド合意」が成立した。サダトはカーターについて回想録の中で、「カーターこそ、アメリカの歴代大統領のなかで、パレスチナ民族に『民族的郷土』を持つ権利を与えるよう、一貫して主張した最初の人物だった」と高く評価している。

そして翌79年に歴史的なエジプト~イスラエル間和平条約が結ばれたのである。アラブ諸国とイスラエルとの間の和平条約はこれが初。その後ヨルダンとの間で94年に結んだのが2件目、つい先日、国交正常化を果たしたUAE(アラブ首長国連邦)と和平条約を結べば3件目となる。

暗殺

このエジプト~イスラエル和平条約締結により、サダトとベギンはノーベル平和賞を受賞したが、サダトはエジプト国民およびアラブ諸国から大きな反発を受けることとなった。

そして1981年、イスラム過激派メンバーにより暗殺された。皮肉にも彼が大きな戦果を挙げた第四次中東戦争を記念する軍事パレードの最中だった。

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中東情勢は当時の東西冷戦などの国際政治の影響をモロに受けている。サダトが米国とイスラエルとの和平に大きく舵を切ったのは、当時のデタント(緊張緩和)などの影響の他、70年代以降のソ連が官僚化や政治腐敗により弱体化していったことも大きいと考えられる。ソ連はその後、85年のゴルバチョフ書記長登場によるペレストロイカ(改革運動)で、一気に崩壊と冷戦終結に向けて進んでいく。

いずれにせよ、その決断は30年余り続いたパレスチナ問題に一石を投じる、大きな転換点だった。

残念ながらサダトの死後40年、中東和平は一進一退を続けている。サダトが目指した不毛の対立への終止符と和平の達成は、果たして実現できるのだろうか。

【つづく】

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